過去の恋か、今の恋か『天使の羽音』望月麻衣


 俺は隣に座る彼女の俯いた横顔を見つめる。まるであの頃に戻ったかのように、俺の心の中で抑えていた想いが再び燃え上がったような気がした。

 

 

 『天使の羽音』という作品を思い出す。薄れていた記憶の中に沈んでいた物語が、浮かび上がってきた。

 

 

 かつて誰よりも愛したけれど、一緒になれなかった過去の初恋。そして、現在の、傷ついた自分を救ってくれた愛する恋人。

 

 

 彼はどちらを選んだんだっけか。読んだのは随分と前のことだ。彼の掴んだ選択すらもおぼろげだった。

 

 

 だからこそ、その姿が自分と重なる。今さらになって追いかけてきた過去の恋を、俺はいったいどうすればいい。

 

 

 彼女と出会ったのは俺がまだ学生の頃だ。彼女は俺より一、二ほど年上で、美しい黒髪の少女だった。

 

 

 けれど、彼女は見た目ではない、心が美しかったのだ。彼女の優しさに包まれたとき、俺はその美しさに触れた。

 

 

 女性と付き合ったのは初めてではなかった。けれど、自分から好きになったのは初めてのことだった。彼女は俺の初恋だった。

 

 

 自分から告白するのも、緊張で心臓が張り裂けそうになるのも初めての経験だった。今まで自分に告白してきた彼女たちの想いが初めてわかった気がした。

 

 

 彼女に頷いてもらえて、彼女の身体を抱きしめた時、俺は最も幸せな男だった。今まで満たされなかった心が、初めて満たされたような気がした。

 

 

 彼女もまた、俺のことを好きでいてくれた。俺と彼女は理想的な恋人だったし、このままずっと続くことを俺は疑ってもいなかったのだ。愚かなことに。

 

 

「わたしたち、終わりにしましょう」

 

 

 そう言ってきたのは彼女の方だった。理解できなくて、俺は愕然とした。まるで時間が止まったような感覚さえ覚えた。

 

 

 いや、俺の時間はたしかにあの時、あの瞬間、止まったのだろう。俺はそれから何年も、彼女への想いに囚われることになるのだから。

 

 

 彼女が別れを切り出した理由は、彼女の家の事情だった。彼女の父親が転勤で海外に行くことになり、家族もついていくことになったのだ。

 

 

 当時、学生だった俺と彼女にとって、海外は途方もなく遠いところだった。気軽に会いに行けるような場所ではなかった。

 

 

 離れていても俺たちは想い合うことができるはずだろう。別れる必要はないはずだ。俺はそう叫んだ。

 

 

 電話もある。メールもある。遠いところに行っても永遠の別れになることはない。毎日のように話そう。遠距離恋愛なんて、互いに好きであるなら難しくない。

 

 

 俺がそう叫んでも、彼女が首を縦に振ることはなかった。

 

 

「あなたがそれほど私のことを好きでいてくれるのは嬉しいわ。でも、わかって。私はあなたの重荷にはなりたくないの」

 

 

 どうして俺の重荷になると決めつけているんだ。俺はそう叫んだ。彼女は別れたくないと叫ぶ俺を、黙ったまま哀しげに見つめていた。

 

 

 そうして俺たちは別れ、彼女は海外へと飛び立っていった。俺と彼女は、とうとう喧嘩したまま別れることになったのだ。

 

 

 最後に見た彼女の哀しげな表情が、いつまで経っても俺の心に刻まれていた。それは過去の亡霊となって、俺の心をいつまでも縛りつけている。

 

 

過去か、現在か

 

 俺の心が動き始めたのは、社会人になってからのことだった。

 

 

 俺は彼女と別れてからは、いろんな女性と付き合ってきたが、心は渇いたままだった。いや、むしろ、さらに渇いていったという方が正しいだろうか。

 

 

 どんな女性と付き合っても、俺の心の中には彼女の影があった。彼女と比べると、どんなに美しい女性でも霞んで見えた。

 

 

 そのしがらみから解放されたのは、後輩として入社してきた女性だった。婚約も交わしている、現在の彼女だ。

 

 

 彼女は昔の彼女とは、何もかもが違っていた。まるっきり正反対と言ってもいいだろう。

 

 

 どこかふわふわとしたような、小動物じみた可愛らしさを持つ女性だった。しかし、容姿は冴えないし、美しかった彼女とは雲泥の差だ。

 

 

 快活で、いつも笑っている。そんな子だった。そんな彼女の笑顔に、次第に俺の凍り付いた心が溶かされていくのを感じた。

 

 

 それがまるで彼女のことを愛していた自分を否定するようで、彼女への想いを忘れるようで、それがたまらなく嫌だったこともある。

 

 

 そんな時は彼女に冷たいことを言って責める時もあった。けれど、そんな俺を、彼女は責めるでもなく、ただ寂しそうに笑うのだ。

 

 

 その笑みを見るたびに、俺の心が軋んでいく。自分の醜さが浮き彫りにされるようだった。どうしてこんな自分が、心の美しい彼女の隣りに立てていたのだろう。

 

 

 自分の醜さを知らされて傷ついた俺を抱きしめてくれたのは、今の彼女だった。彼女の腕の中で、俺は初めて涙を流した。

 

 

 彼女からの告白を受け入れたのはその後だ。周りは今までの彼女との違いに戸惑い、どうせまた続かないだろうと噂した。

 

 

 けれど、俺はもう、過ちを繰り返すつもりはなかった。俺の心を救ってくれた彼女を、心の底から愛していたからだ。

 

 

 彼女と婚約を交わしたことに後悔はない。ようやく俺は幸せになれる。そのはずだった。

 

 

 それなのに、どうして今になって、ようやく諦めることのできた過去が、再び俺の前に現われるのか。

 

 

「久し振り、だね」

 

 

 過去の激情と、現在の恋。常識に従えば、現在の恋を選ぶべきなのだろう。けれど、過去の俺が心の内で叫んでいた。

 

 

 ああ、俺はどうすればいい。俺の心の中で、二つの想いが激しくせめぎ合っていた。悩み、悩み、葛藤の末に、俺が出した答えは。

 

 

新天地での二人の生活に忍び寄る影

 

 『病んだ大都会』。そんな風に抱いていたニューヨークのイメージが払拭されたのは、実際にその地を訪れてからだった。

 

 

 この街は巨大なアートのようだ。立ち並ぶ高層ビル群に、光り輝くネオンはイメージそのものだが、決して下品ではない。

 

 

 アキに色づき始めているセントラルパークの紅葉を眺め、樹利はゆっくりと散歩しながら柔らかく目を細めた。

 

 

 そんな樹利が優雅に歩く姿は、通り過ぎる人々の視線を集めていた。洗練されたファッションに身を包み、スラリと高い背に整った美しい顔立ち。

 

 

 自分の意思とは裏腹に常に注目を受け続けてきた樹利にとって、見ず知らずの人間が自分を見ては振り返ることなど、いつしか気に留めることでもなくなっていた。

 

 

 大きな池のほとりのベンチに腰をかけ、秋の景色を眺めながら心現れるような気持でいると、人に慣れたパークのリスがちょろちょろと姿を現した。

 

 

 リスか、可愛が喜びそうだな。笑みを浮かべて、ポケットの中からデジカメを取り出しリスを写真に収めた。

 

 

 何かあげるものはないかとポケットの中を探り、何もないことに肩を竦め、エサが貰えないことに気付いたリスは小走りで姿を消した。

 

 

 樹利は小さく笑ってリスを見送った後、ゆっくりと身体を伸ばした。

 

 

 ニューヨークに来て一ヶ月。いろいろな手続きや開店準備に怒涛のような毎日だったが、ようやく落ち着いてきた。

 

 

 もうすぐ可愛が来る。そう思い、今後可愛が通うこととなる語学学校の手続きなどを頭の中で確認し、樹利はうんと頷いた。

 

 

 手続きはほとんど終わったし、あとは彼女が来るのを待つだけだ。

 

 

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