彼女のことを誰よりも守りたいと思う。けれど、彼女にとって一番危険なのは、僕自身なのだ。
彼女が生まれた時のことを、僕は今でも覚えている。顔をくしゃくしゃにして泣いている姿は、まるで猿みたいだった。
指を差しだすと、ぎゅっと握り締めてくる。その手のひらは本当に小さくて、弱々しかった。
その時の僕は妹ができたことがおもしろくなかった。母も父も、妹のことにかまってばっかりになったからだ。
けれど。お兄ちゃんになったのよ。母からそう言われて、彼女を恐る恐る抱いた時。
腕にずしっとくる重み。あまりにも小さくて、柔らかいその存在は、大切に扱わないとすぐに壊れてしまうように思えた。
怯えながら抱きしめる僕を、腕の中から見上げてくる彼女はどこかきょとんとした表情をして、そしてぱあっと花が咲いたように笑ったのだ。
その瞬間だった。この子を守らなければならない。そう強く心に誓った。それは家族としてでもなく、兄としてでもなく、ただ、僕という存在に刻まれた誓いだった。
目尻から息をするように涙が零れる。ほっぺたに落ちた僕の雫を受けて、彼女は何が面白いのか、きゃっきゃと笑っていた。
その瞬間、僕は妹に恋をした。心に溢れだす強い想い。僕の心は彼女の笑顔に囚われてしまった。
そして、今にして思えば、それは僕の人生がもうどうしようもなく壊れてしまう始まりだったのかもしれない。
恋という名の罪
僕は読んでいたスマホの画面を閉じる。途中まで進められた物語は待ち受けにしている飾り気のない風景に変わり果てた。
ふうとため息を吐く。思い出すのは、この物語を勧めてきた彼女の笑顔だった。
『お兄ちゃん、この作品、おもしろいから読んでみて! 感想聞かせてね!』
そう言ってきた妹の姿を思い出して、思わず口角が上がる。恋愛小説よりもミステリの方が好きだけれど、僕が彼女の言葉を無視できるわけがない。
『天使の鼓動』から始まる『天使シリーズ』は最初こそ気乗りしなかったけれど、読み始めてみると、思いのほか面白くて、すでに九作目にさしかかっていた。
『天使の時間』。しかし、その最初のあたりで、文字を上へと流していく僕の指は遅くなってしまった。
登場人物のひとり、小林雄太。クールで、感情を表に見せない彼。その内側に秘められた狂おしいほどの熱。それがまるで自分のことのように、心の中で燃え盛る。
彼の気持ちは痛いほど理解できた。僕もまた、叶うことのない、いや、叶えてはいけない恋に身を投じているのだから。
猿のようだった赤ん坊は、成長するにつれてかわいらしく、そして美しい少女へと育っていった。
彼女から『お兄ちゃん』と透き通った声で呼び掛けられると、いつだって心が跳ねた。はるか昔に抱いた幼い想いは、時が経るごとに衰えるどころか、日に日に強くなっていた。
彼女を守りたい。あの頃に誓った幼い誓いは今でも僕の中で絶対のものだった。しかし、同時に、彼女を僕の手で汚したいという矛盾した劣情が僕を苦しめていた。
その醜く膨れ上がった想いが、いずれ僕の腹を食い破って顔を出し、本能のままに彼女を傷つけるのではないか。
守ると誓った存在を、自分自身の手で散らす。その光景は狂おしいほどに蠱惑的で、そして決して起こしてはならないことだった。
彼女を守る。しかし、彼女を最も傷つけるのは、きっと僕だ。僕という怪物から彼女を守らなければならない。そう思ってきた。
けれど、雄太の出した答え。雄太に、天使が教えてくれたこと。それが、僕の胸の中で脈動している。
「執着、か」
思わず呟く。僕の想いもまた、執着なのかもしれない。彼女を守るという誓いと、彼女に向ける醜悪な恋心。
ずっと、それを罪だと信じてきた。自分は彼女を傷つける怪物で、僕は僕から彼女を守らなければならないのだ、と。
けれど、自分を傷つける必要も、ないのかもしれない。恋をしている自分を認め、醜い自分も許し、守り続けた自分を褒めて、そして彼女の結婚を見届けて、正しい失恋をする。
そうしたら初めて、僕は前に進めるのかもしれない。顔を上げると、彼女に恋をした頃の幼い自分が、僕を切なそうな顔で見て、そして柔らかく微笑んだ。
天使との出会い
何もかも諦めたのは、いつからだろう? いつしか自分は、自分の全てに落胆していたんだ。
そんな自分にこんな日が訪れるなんて、あの頃は想像もつかなかったな。小林雄太は過去を振り返り、そして小さな笑みを浮かべた。
ずっと、ポーカーフェイスを貫いてきた自分。自分が普通じゃない、と気づいたのはいつからだろう?
自分はいつも、化け物を内側に飼って生きていると思っていたんだ。
自分の変化を感じたのは中学に入った頃からだった。突然覚醒したように、勉強の全てが簡単にわかるようになった。
今まで側面しか見られなかったものが、はるか上空から全てを見下ろせるようになったかのように、すべてを把握でき始めた。
それと同時に気付き始めた一つの想い。彼女の屈託ない笑顔を脳裏に思い浮かべ、その苦しさに眉間にしわを寄せた。
多くの、姉を持つ男はみんな、どんな想いを抱いているのだろう? こんなふうに想う、自分だけが特別なのだろうか?
早く、早く家を出たい。思春期に、きっと歳の近い姉がいるから、こんなふうに想ってしまうからもしれない。
家を出たら、その錯覚から抜け出せるのだろう。子どもが大人になる途中に起こっている、ただの気の迷いに過ぎないのだから。そう言い聞かせ、拳を握り締めた。
いつも必死に、自分の気持ちを誤魔化し続けていた。それでも、限界だった。息苦しさに耐えられず、逃げるように留学を決めた。
十六歳でハーバード大学に入学する。みんながみんな、それは誇らしげにしていたが、自分自身は誇らしくもなんでもなかった。
愛しい姉から、自分という化け物を遠ざけるための手段に過ぎなかった。このままそばに居続けたら、いつか自分の内側からこの化け物が飛び出して、彼女を傷つけてしまうかもしれない。
そして彼女のことだけでなく、幼い頃から言い知れぬ違和感を胸に抱いていた。理想的な家庭にいながらも、”自分の居場所はここじゃない”という居た堪れない思い。
ここじゃない。ここじゃないんだ。早く還りたい。理屈ではなく、そう感じてきていた。
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