田舎の青年の初恋『三四郎』夏目漱石


 青春は果てがない。果てがない世界を、私たちは目指すところも知らずただ歩くしかないのだ。私たちは誰もが、ただの迷える子羊に過ぎない。

 

 

 木漏れ日の零れる木陰でひとり佇む彼女は、どこか切なげな、憂いに満ちた表情をしていた。俯いた額に黒髪がかかり、長い睫毛が彼女の瞳を隠している。

 

 

 桃色のリボンがついた帽子を被り、雪のように白いワンピースの上に、ベージュのコートを羽織っていた。

 

 

 見知らぬ女である。彼女は不安げにスカートの裾を握り締めている。それはまるで自分の居場所がわからず、向かうべき場所を見失っている迷子のようだった。

 

 

 私は思わず駆け寄りたくなった。駆け寄って、彼女の不安を取り除いてやりたい。そう思った。そして、自分が抱いたその思いに戸惑った。

 

 

 私の足は頑として動かない。まるで影に縫い付けられたかのようだった。かといって立ち去ることもできなかった。歩むことも去ることもできず、私はただ、突っ立っていた。

 

 

 彼女がはあとため息を吐く。艶やかな桜色の唇から零れる吐息がなんとも悩ましく、さながら西洋画の女のような色気があった。

 

 

 私は阿呆みたいに口をぽかんと開けたまま、茫然と、ただ、その光景を見つめていた。目を離すことができなかった。

 

 

 広葉樹の隙間から射している暖かな明かりが彼女のうなじを照らす。その眩いばかりの白さが私の目に写真のように強く焼き付いた。

 

 

 それはまるで凡人の侵してはならないような聖殿のような神々しさを湛えながらも、官能的な美しさを描き出していた。

 

 

 不意に、彼女が顔を上げた。私と視線が合う。それは一瞬のことだった。私は思わず罪悪感にも似た感情を覚えた。

 

 

 自分の心臓が騒がしかった。身体がまるで沸騰するかのように熱い。それが私の初恋だった。

 

 

魅せられて

 

 無断で学校を休んだのは初めてのことだった。教科書の詰まった学生鞄も、学校まで向かう道筋も、何もかもがつまらないもののように見えた。

 

 

 親にも教師にも、どうして休んだのか、問い詰められた。答えられずに黙っていたら、いつの間にか終わっていた。

 

 

 まるで心がないかのようだった。なくした心がどこにあるのか、私はそれを知っていた。

 

 

 彼女が奪っていってしまったのだ。私の心は彼女が持っている。

 

 

 彼女が深いため息を吐いてその場を去った後、ようやく私は歩き出した。心はまだ陶然としていた。

 

 

 あの時以来、毎日が夢を見ているかのようだった。いや、もしかすると、あの出会いこそが夢だったのかもしれない。

 

 

 どちらが夢なのか、すでに私には曖昧になっていた。いつも夢を見ているように、視界に映る光景が靄がかっていた。

 

 

 何をしている時であっても、あの光景が脳裏によみがえるのだ。木漏れ日の中。彼女の憂いを湛えた瞳。白いうなじ。ぎゅっと握られたスカート。

 

 

 ふと、顔を上げると、あの時に見た白が見えた。曲がり角から彼女が歩いてきていた。私は思わずその場に立ち止まり、動けなくなる。

 

 

 彼女は楽しそうに笑っている。その表情に、あの時に見た憂いはどこにもなかった。

 

 

 彼女の隣にいるのは精悍な男である。その腕に、彼女は抱き着いていた。彼は、そんな彼女を慈しむように見ていた。

 

 

 彼女がすれ違いざまに私を見た。視線が絡み合う。彼女の瞳の奥にあったのは、あの瞬間、私を捕らえた淋しさだった。

 

 

 彼女が通り過ぎて、見えなくなってから、ほうとため息を吐く。失恋したのだ。私はそうひとりごちた。

 

 

 落ち込んでいるわけでもない。哀しさもなかった。ただ、言いようの知れない虚無感のようなものだけが私の胸に穴を開けていた。

 

 

 ふと、あの瞬間の光景が薄らいでいることに気がつく。彼女の姿が木漏れ日の向こう側にかき消えていた。私は彼女の瞳に湛えられた淋しさに恋をしたのだと、その時、気がついた。

 

 

 辿り着かずとも、ただ、想うことさえできていれば幸せだった。憧憬を失くしてしまった私は、一体どこへ向かえばいいのだろう。向かうべき場所を失った私は、ただ迷い続けることしかできない。

 

 

恋に翻弄される青年の青春

 

 三四郎がじっとして池の面を見つめていると、大きな木が、幾本となく水の底に映って、その又底に青い空が見える。

 

 

 三四郎はこの時電車よりも、東京よりも、日本よりも、遠くかつ遥かな心持がした。しかししばらくすると、その心持のうちに薄雲のような淋しさが一面に広がってきた。

 

 

 活動の激しい東京を見たためだろうか。現実世界はどうも自分に必要らしい。けれども現実世界は危なくて近寄れない気がする。

 

 

 ふと眼を上げると、左手の岡の上に女が二人立っている。落ちかかった日が、すべての向こうから横に光を透してくる。女はこの夕日に向いて立っていた。

 

 

 三四郎のしゃがんでいる低い陰から見ると岡の上はたいへん明るい。女のひとりはまぼしいと見えて、団扇を額のところにかざしている。

 

 

 顔はよくわからない。けれども着物の色、帯の花は鮮やかにわかった。もうひとりは真白である。これは団扇も何も持っていない。

 

 

 三四郎は又見惚れていた。すると白い方が動き出した。見ると団扇を持った女もいつの間にか又動いている。二人は申し合わせたように用のない歩き方をして、坂を下りてくる。

 

 

 坂の下に石橋がある。渡らなければ真直ぐに理科大学の方へ出る。渡れば水際を伝ってこっちへ来る。二人は石橋を渡った。

 

 

 団扇はもうかざしていない。左の手に白い小さな花を持って、それをかぎながら来る。

 

 

 二人の女は三四郎の前を通り過ぎる。若い方が今までかいでいた白い花を三四郎の前へ落としていった。

 

 

 三四郎は二人の後姿をじっと見つめていた。華やかな色の中に、白い薄を染め抜いた帯が見える。頭にも真白な薔薇をひとつ挿している。その薔薇が椎の木陰の下の、黒い髪の中で際立って光っていた。

 

 

 三四郎は女の落としていった花を拾った。そうしてかいでみた。けれども別段の香もなかった。三四郎はこの花を池の中へ投げ込んだ。

 

 

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