小説伊勢物語『業平』高樹のぶ子


「思ふこと言はでぞただに止みぬべき我とひとしき人しなければ」

 

思っていることは言わずに、そのまま終えるべきであろう。私と同じ人などこの世にはいないのだから、心の底より解ってもらえるはずなどないのだ。

 

その歌を詠んだのは、平安時代の色男、在原業平である。彼は出世こそしなかったものの、多くの女性と浮名を流し、優れた歌人として多くの歌を遺した。

 

その歌は、老いを経て、病床に伏せて死を間近に見た業平が、長らく滞った知人たちへの返事として詠んだ。これを見ると、歴史上では歌の上手な色男としか見ることのできない「業平」という人物が、途端に偽物めいた戯画に変わってしまう。

 

在原業平は、本当はどんな人物で、その心の内に何を抱えていたのか。何千年もの時を経た現代では、その真実を知りようがない。それでも、そうと知りつつ、私はどうにか、彼の内面に触れてみたかったのだ。

 

かの『伊勢物語』は、在原業平をモデルにしていると言われている。しかし、その物語は断片的で、小説というよりは短編をいくつも集めたかのよう。それを一冊の物語として再構築したのが、高樹のぶ子先生の『業平』である。

 

業平と美しい女性たちの関係と美麗な和歌、それらは読んでいる私の心を躍らせてくれる。同じ平安時代を描いた『源氏物語』の光源氏を私はどこか好きになれなかったが、業平に対してはそれほどの嫌悪を感じることはなかった。

 

次々と恋愛の相手が変わっていく光源氏と違い、業平は女性ひとりひとりを大切にしているように思える。他人の相手を無理やり奪うようなこともない。

 

どうして、この作品を『伊勢物語』と呼ぶのか、私にはその理由が今までわからなかった。しかし、この作品を読んで、ようやく理解した。

 

「伊勢」という女性が登場する。この作品の中で、彼女だけが、業平と恋愛関係にあった他の女性とは異なる、特異な立ち位置にいるのだ。

 

利発な女性であり、業平の和歌にも咄嗟に返歌ができるほどに優秀である。高貴な身分の女性に仕えていた。しかし、彼女は業平の恋人ではない。彼女からの告白を、業平が断るのだ。

 

そして、業平と愛し合っていた主人から、業平と結婚するよう言い渡される。すると、今度は伊勢が「年寄りは嫌だ」と断り、下女として彼の側に仕えるようになる。

 

業平の最期を看取ったのは彼女である。伊勢と業平の関係は、恋愛という男女の関係を超えたところにあるように思えた。

 

かつて、国語の授業で読み込んだものの、よくわからなかった『伊勢物語』。それが、物語として読むことでこんなにも色づくとは思わなかった。在原業平という男の生涯は、今もなお、色褪せることがなく鮮やかに輝いている。

 

 

業平という男

 

春真盛りの、大地より萌え出ずる草々が、天より降りかかる光をあびて、若緑色に輝く春日野の丘は、悠揚としていかにも広くなだらか。

 

その斜面を取り巻く樫や山桃の枝葉を払いくぐるようにして、勢いよく駆けだしてきた若い男ひとり、顔を輝かせ頬を汗で濡らした様が、若木の茎を剥いたように匂やかでみずみずしい。

 

追いかけて、暗い森から数人の男たちと馬二頭が走り出してきます。中のひとりが息はずませて若い男に近づき、声をかけました。

 

「……若君さま! そのように急がれては、警護のものたちが困ります。鷹飼や犬飼たちも追いつきませぬ」

 

「憲明はいつも遅すぎる。何かにつけて、ゆっくりなさいませ……慎重になさいませと……」

 

憲明と呼ばれた男、苦々しい笑顔ながら、若者の気負いや勢いが嬉しくてたまらない様子で、頬を染め、狩衣の裾を手で払いました。

 

在原業平は十五歳。初冠の儀式を終えたばかりで、伴の憲明は、業平の乳母山吹の長子で業平より五歳年上。憲明は業平を実の弟のように親しく可愛がってきたものの、今や身分の違いは、この天地ほども明らかなのです。

 

春日野の狩場は業平の所領内にあるので、安全とは思われるものの、無事戻られたお顔を見て、控えの供人たちもようやく安堵。それなのに業平は、ふたたび出て行こうとします。

 

「若君さま、春の宵は短くもうすぐ暮れ落ちます。今日はゆっくり夕餉を召し上がって、お休みになられてください」

 

「案ずることはない。今少し身体のほとぼりを冷まして宿所に戻りたい」

 

「では私もお伴をいたします。どちらに参られますか」

 

「……私が生まれる前の、平城帝があれほどまでに懐かしく思われた古の都は今、どのような夕暮れかと」

 

憲明ははっとなり口を噤みました。業平は父親阿保親王、その父である平城帝の話題になると、突然無口になる。まぎれもなく貴種直系なのに、それを恥とする曇り心が胸をよぎる様子。

 

平城帝は譲位後に都を平安京から奈良に戻そうと企てて失敗した。業平の父親もこれに連座し、長く太宰府に配流の憂き目。そのような評判は若い業平の耳にも入り、誇りを打ち砕くばかり。

 

「平城京は若草が匂う……それともこの匂いは女人の香りか……」

 

憂いを紛らわすように深く息を吸うと、業平は大人びた口ぶりで呟きました。

 

 

小説伊勢物語 業平 [ 高樹 のぶ子 ]

価格:2,420円
(2021/9/25 19:09時点)
感想(4件)

 

関連

 

平安時代のプレイボーイ『伊勢物語』

 

昔、男ありけり。平安時代にも、男女の間にある情は変わらない。恋愛や、少し不思議な話を、巧みな和歌の美しさが彩る。在原業平をモデルにしたと言われている、平安時代の男の一代記。

 

恋愛したい貴方様におすすめの作品でございます。

 

 

新版 伊勢物語 付現代語訳 (角川ソフィア文庫) [ 石田 穣二 ]

価格:792円
(2021/9/25 19:13時点)
感想(1件)

 

光源氏の色恋に溢れた生涯『新源氏物語』田辺聖子

 

幼くして母である桐壺の更衣を亡くし、帝の子として生まれながら愛ゆえに権力から遠ざけられた光源氏。多くの女性との激しい恋愛に溺れる彼の生涯は、常に母の影と女の色香のひそむものであった。

 

プレイボーイの貴方様におすすめの作品でございます。

 

 

新源氏物語 上 (新潮文庫 たー14-14 新潮文庫) [ 田辺 聖子 ]

価格:880円
(2021/9/25 19:17時点)
感想(10件)