出世と愛、どちらを選ぶ?『舞姫』森鷗外


妻が家を出ていった。俺はひとりきりになった居間でグラスを傾けながら、妻の最後の言葉を、頭の中で思い返していた。

 

「仕事と私、どっちが大事なの?」

 

涙を流しながら訴えた妻の震えた声が頭の中から消えない。それほど俺は彼女を寂しがらせたのだろうか。俺が悪かったのか、いや、しかし。

 

たしかに、最近は仕事ばかりで遅くなっていたことは否定できない。深夜に家に帰ることはいつものことで、時には朝に帰ることすらあった。

 

そんな時間に、妻とまともな会話ができるはずもない。ここ最近の妻との会話は数えるほどしかなかった。

 

だが、俺がそれほど長く仕事に勤めていたのも、ひとえに妻のためだ。妻との生活のために、俺は仕事を頑張っていた。そのはずだ。

 

なのにどうして。俺はあの時、妻の問いに言葉を失ってしまったのだろう。仕事と妻、どちらが大事なのか。俺はなぜ、堂々と胸を張って妻だと答えられなかったのか。

 

家族のために、俺は仕事を頑張っている。そのはずだった。なら、妻が大事に決まっているじゃないか。何度自分に言い聞かせても、空っぽの部屋に俺の声は虚しく響くだけだった。

 

今までは特に何も思わなかった家が、今はとてつもなく広く感じて、俺は思わず部屋を見渡した。すると、ふと、壁際の本棚に立てかけられた一冊の本が目に入った。

 

手に取ってみる。森鴎外の『舞姫』。普段は本を読まない俺でもその題名は知っていた。国語の教科書にも載っていた気がする。

 

妻は、俺が帰ってくるのを待っている間、この本を読んでいたのだろうか。妻が本好きだということは知らなかった。よく見れば、本棚には結構読み返した痕跡がある本がいくつもある。『舞姫』もそのひとつだった。

 

何気なく手に取って、読み始めてみる。本を読んだのは久しぶりだった。それなのに、その時はどういうわけか、何の抵抗もなく、物語が自然と頭の中に入ってくるかのようだった。

 

物語の主役となるのは、語り部でもある豊太郎という男だ。彼は優秀な外交官としてドイツを訪れることとなる。

 

そこで彼は、エリスという踊り子の女性と出会った。彼女に金を工面したことがきっかけで二人は惹かれ合い、子どもを授かる仲にまで発展する。

 

ところが、そのことを上司に知られたことで仕事を失い、豊太郎は自分の身の振り方に迷うこととなった。そこに彼の同僚の相沢という男が現れる。

 

相沢の助けでどうにか日々の糧を得るような日々が続いたある時、彼から大臣の仕事を紹介される。大臣に気に入られた豊太郎は、ともに日本に帰国するよう指示を受けた。

 

「女のために出世を捨てるのか」という相沢の言葉を受けて、とうとう豊太郎は、子どもを妊娠しているエリスを置いて日本への帰国を決意した。

 

ひとり残されたエリスは精神が錯乱して泣き喚き、豊太郎は帰りの船でドイツでの出来事に思いを馳せながら、相沢のことを良い友だとは思うが、彼を憎む気持ちは消えない、と締めくくる。

 

読み終わった俺は、気がつけば、豊太郎と自分を重ねていることに気がついた。そして、妻もこの物語に自分たちを重ねていたのだろうと、なんとなく思った。

 

豊太郎の自分勝手さには腹が立つ。出世のために愛した女性を捨て、その決断を促した友人のことを憎む。結末のエリスの痛ましい姿には、思わず涙が流れるほどだ。

 

だが、俺もまた、この男と同じだ。仕事にかまけ、妻を捨てた。彼女は俺を置いて出ていったが、妻が俺を捨てたわけじゃない。俺が先に、彼女を捨てていたのだと、気づいた。

 

今からでも、間に合うだろうか。俺は間違っていた。その過ちは、正すことができるだろうか。妻の携帯番号が映し出されたスマートフォンの画面を見つめながら、俺は迷い続けていた。

 

 

仕事か、愛か

 

石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。今宵は夜ごとにここに集い来る骨牌仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば。

 

五年前の事なりしが、平生の望足りて、洋行の官命を蒙り、このセイゴンの港まで来し頃は、筆に任せて書き記しつる紀行文日ごとに幾千言をかなしけむ、今日になりておもへば、心ある人はいかにか見けむ。

 

こたびは途に上りしとき、日記ものせむとて買ひし冊子もまだ白紙のままなるは、独逸にて物学びせし間に、一種の「ニル・アドミラリイ」の気象をや養ひ得たりけむ、あらず、これには別に故あり。

 

げに東に還る今の我は、西に航せし昔の我ならず、学問こそなほ心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは言ふも更なり、われとわが心さへ変りやすきをも悟り得たり。

 

ああ、ブリンヂイシイの港を出でてより、早や二十日あまりを経ぬ。

 

世の常ならば生面の客にさへ交を結びて、旅の憂さを慰めあふが航海の習なるに、微恙にことよせて房の裡にのみ籠りて、同行の人々にも物言ふことの少きは、人知らぬ恨に頭のみ悩ましたればなり。

 

これのみは余りに深く我心に彫りつけられたればさはあらじと思へど、今宵はあたりに人もなし、房奴の来て電気線の鍵を捩るにはなほほどもあるべければ、いで、その概略を文に綴りて見む。

 

 

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