鎌倉の代書屋を継いだ女性の物語『ツバキ文具店』小川糸


 先日、部屋を掃除していると、懐かしいものを見つけた。可愛らしい模様のレターセット。胸の中に、思い出が再生されていく。

 

 

 小学生の頃、同級生の男の子と文通をしていた。私は彼のことが好きだった。彼の転校を機に、その関係も終わってしまったのだけれど。

 

 

 そのレターセットは初めて親にねだって買ってもらったものだった。猫のイラストがとてもかわいくて、一目惚れしたのだ。

 

 

 彼からの手紙は飾り気のないシンプルな便箋だった。けれど、開ける時はいつもドキドキしていたものだ。文面も優しくて、胸が高鳴っていたのを覚えている。

 

 

 思えば、手紙を書いたのはあの頃が最後だった。今はもう、ほとんどメールだけで片づけている。

 

 

 でも、無機質な文字じゃなくて、紙に書いているからこそ、伝わる思いもあるだろう。

 

 

 小川糸先生の『ツバキ文具店』という作品を、ふと思い出した。読んでいた頃は何も感じなかったけれど、今は、もう一度読みたいと思う。

 

 

 「ツバキ文具店」は文具店の傍ら、先祖代々から代書屋を営んでいる家だった。今まで、その店は祖母である先代が営んでいた。

 

 

 しかし、その先代が亡くなった。先代には反発していた鳩子だったが、結局、彼女の遺したツバキ文具店を引き継ぐことになってしまった。

 

 

 隣人であり、唯一の友人であったバーバラ夫人とだけ親交を深めていた鳩子は、代書屋の仕事を通じていろんな人たちと出会い、代書屋としての誇りと、祖母の想いを知ることになる。

 

 

 今の時代、メールやラインでのメッセージが当たり前になって、手紙はほとんど節目の挨拶くらいでしか使われなくなった。

 

 

 それすらも近頃では少なくなっている。私も、気が付けば年始の挨拶をメールでまとめて終わらせていた。

 

 

 けれど、年賀状を書いていた頃のことは、今でも思い出せる。一枚一枚、丁寧に間違えないよう、住所を書いて。

 

 

 年賀状のイラストをうんうん唸って考えながら描いていた頃は、大変だったけれど楽しかったなぁ。

 

 

 メールの普及によっていろいろなものが変わった。随分と便利になった。けれど、同時に失われたものもたくさんある。

 

 

 『ツバキ文具店』は、私たちが失くしてしまった大切なものを、改めて教えてくれる。

 

 

 静かな鎌倉の街並みと、そこに住む人たちの人情。その暖かさが、その作品には溢れていた。

 

 

 なんだか、久しぶりに、彼に手紙を書きたくなってきた。なんて、彼の今の住所を知らないから送ることはできないんだけど。

 

 

 懐かしのレターセットを机の上に置いて、ペンは、日頃から愛用しているサインペンを使うことにした。

 

 

 小さい頃は鉛筆を使っていたから、せっかくなら再現したかったのだけれど、残念ながら鉛筆は手元になかった。

 

 

 親愛なる、と名前を書いて、お元気ですかと続けた。けれど、そこで筆が止まってしまった。

 

 

 なにせ、書こうと思い立ったから始めただけで、何を書くかは考えていなかったのだ。

 

 

 さて、どうしようか。そもそも、彼に家庭があったら、変な誤解とか与えちゃいそう。それは私の本意ではないし。

 

 

 迷った末に、性別がわかりにくいような文面にすることにした。うん、これならきっと、迷惑がかかることもないだろう。

 

 

 久しぶりにレターセットを見つけて、懐かしくなった、と、自分の近況だけを書いておく。

 

 

 彼を好きだったのは小学生の頃だ。とうとうその想いは叶わなかったけれど、書いている間はまるでその頃の恋していた自分に戻ったかのようだった。それだけでも、彼に感謝したいくらい。

 

 

 だから、そもそも送るかどうかすら決めていない。私は書き終わった便箋を封筒にしまい込んで、どうしようか考えていると、郵便のバイクの音が聞こえた。

 

 

 外に出て郵便受けを見ると、一通の手紙が入っている。無地の、シンプルな白い手紙だった。

 

 

 差出人を見て、心臓が跳ねたような気がした。それは、彼からの手紙だった。封を切って読んでみる。

 

 

「ふふっ」

 

 

 思わず笑ってしまう。彼の手紙は、性別がわからないように書かれていた。

 

 

「掃除をしていたらレターセットを見つけて、懐かしくなってつい手紙を送りました」

 

 

 なんて、ついさっき、まさしく自分が書いたばかりの文章そっくりだった。ぽっと心が温かくなる。

 

 

 不思議なことってあるんだね。世の中には。

 

 

あなたの言葉、代筆します

 

 私は、小高い山のふもとにある、小さな一軒家に暮らしている。住所は、神奈川県鎌倉市だ。鎌倉といっても山の方なので、海からは随分離れている。

 

 

 以前は先代と住んでいたのだが、三年ほど前に先代が亡くなったので、今は古い日本家屋でひとり暮らしだ。

 

 

 ぼんやりしながら京番茶を飲んでいると、お隣さんの階段の踊り場にある小窓がゆっくりと開いた。左隣に住む、バーバラ婦人である。

 

 

 バーバラ婦人と言葉を交わすことで、私の一日は、いよいよ本格的に始動する。

 

 

 私の名前は、雨宮鳩子という。名付け親は、先代だった。

 

 

 私は、改めて自分の家を眺めた。上半分がガラスになっている両開きの古い扉には、左に「ツバキ」、右に「文具店」とある。

 

 

 雨宮家は、江戸時代から続くとされる、由緒正しき代書屋なのだ。その十代目が先代で、その後を継いだのが、十一代目の私というわけである。

 

 

 ちなみに先代というのは、血縁関係から言うと私の祖母に当たる。先代は代書屋を営みながら、女手一つで私を育ててくれたのだった。

 

 

 ただ、今の時代における代書屋といえば、祝儀袋に名前を書いたり、社訓や為書きの類いの文字を書くのが主な業務内容とされている。

 

 

 先代も、とにかく書く仕事であればなんでもこなした。早い話、文字に関するヨロズ屋というわけである。表向きは、町の文具屋にすぎない。

 

 

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