激しい雨が降り続けている。テレビで見ると、見知った光景が、見覚えのない光景に変貌していた。電話が鳴り響く。どうして、私はあの場所にいないのだろう。
運がいい、と、よく人から言われる。豪雨や地震が起こった時、私は不思議と、安全な場所や被害がほとんどない場所に偶然いることが多かった。
生まれてこの方、大きな災害の場というものに居合わせたことがない。私にとってのその光景は、いつもテレビの向こう側だった。
西日本を襲った激しい豪雨は、滅多に被害を受けない私の地元を直撃した。親からかかってきた切羽詰まったような電話を、私はテレビを見ながら静かな部屋で応えた。
「無事でよかった」
親はそう言って安堵の息を吐く。それは私のセリフではないだろうか。胸に何か、得体の知れない感情が残る。その正体を、私は知らなかった。
テレビの中に映る世界はいつだって、私を蚊帳の外に置いた厳しい世界だ。紛争で多くの人が亡くなる。電車の事故で重傷者多数。多くの人が苦しむ姿を、私は快適な部屋で見ていた。
幸せであることは良いことだ。そのはずなのに、胸に残るのは安堵ではなく、微かな違和感。私がここにいることの、違和感だ。
その曖昧にぼやけた感情の正体を私に教えてくれたのは、一冊の本だった。『i』。西加奈子先生の小説。
アイ。それが主人公の名前だった。彼女は裕福な家庭に引き取られた養子で、両親から大きな愛情を受けて育った。
しかし、彼女の聡明で優しい心はそんな自分の状況に苦痛を覚える。幸福であるが故の、傲慢な苦痛。
その感情を、罪悪感と言った。その言葉を見た瞬間、私は自分の胸にある曖昧な感情の正体を目の当たりにしたように思えた。私はアイと同じように、運がいい自分が許せなかったのだ。
自分が幸福でいる間も、世界では多くの人が苦しんでいる。アイはいつしか、世界で起こる大きな事件による被害者を、ノートに書くようになった。
「この世界にアイは存在しません」
高校の最初の授業。数学の時間に、彼女は「虚数」を知った。その言葉は、呪いとなって彼女を蝕んでいく。
「アイ」は「虚数」であり、「自分自身」という意味の「I」であり、また「愛」でもある。
この世界にアイは存在しない。なんという残酷な言葉だろうか。
世界中で起きているはずの事件や災害。夥しい死傷者の数。にもかかわらず、そこに「自分」はいないのだ。まるで世界から置いていかれているかのように。
故郷が豪雨被害を受ける中で、平和で静かな部屋でひとり、私はたったひとりだった。その瞬間、私はただただ孤独だったのだ。
みんなが苦境に喘ぐ中で、私だけが外にいる。そのことが何よりも苦しかった。平和であることが苦痛だった。
それはやはり、傲慢な苦悩なのだろう。自分も苦しみたい、だなんて。被害に遭っている人からしてみれば、恨まれても仕方がない。
それでも。テレビで苦しむ遠い人を見るたび、私はどうしても苦しくなってしまうのだ。罪悪感が、私を蝕むのだ。
私のそんな考えを変えたのも、やはり『i』だった。結末まで読み終わり、私はほうと息を吐く。心地よい読後感に、しばらく目を閉じた。
この世界にアイは存在するのか。その問いに対する自分の答えを、きっと、私はこれから見つけなければならないのだろう。
この世界にアイは存在しません
「この世界にアイは存在しません」
え、と声を出した。咄嗟に口を覆ったが、とても小さな声だったから反応しなかった。かすかに動悸がした。
「二乗してマイナス1になる、そのような数はこの世界に存在しないんです」
話しているのは数学教師だ。今日は授業の初日だった、昨日入学式を終えた生徒たちが受ける最初の授業、火曜日の一限目が数学Ⅰだったのだ。
数学教師の風間は生徒に興奮してほしい時は声が大きくなる。そのひとつが虚数の話だった。
「この世界にアイは存在しません」
ワイルド曽田アイ。それがアイの名前だ。アメリカ人の父と、日本人の母を持っている。
アイという名前は、両親がつけた。父ダニエルは、「愛」に相当することを気に入ったし、母綾子は、「I」、自身のことを指すということが気に入った。
つまり自分をしっかり持った愛のある子に育ってほしい、というようなことだ。カタカナ表記にしたのも、両親が二人で考えたことだった。
両親は子育てに関して、共通した想いがあった。子どもを子ども扱いしないこと。ひとりの人間として接すること。
自身が両親と血のつながった子どもではないということ、つまり「養子」であるということは、何歳で教えられたのか覚えてもいなかった。
アイは1988年、シリアで生まれたらしかった。ハイハイを始める前に両親のもとにやってきた。
小学校卒業まで住んでいたのは、ニューヨークだ。ブルックリンハイツという高級住宅街だった。
アイは小さな頃から「子ども」が怖かった。自信も子どもであるというのにだ。子どもたちの粗雑さ、残酷さ、とにかく子どもにまつわるすべてのことが怖かった。
「あなたは本当にグッドガールだったのよ!」
母はいつもそう回想した。アイはだだをこねて両親を困らせるようなことはしなかった。
だが、アイにはわからないことがあった。グッドガールだった自分は、ナチュラルにグッドガールだったのか、それとも「そうでなければいけない」と思っていたのか。
覚えている限り、自分が「養子」であるという意識は、いつもどこかにあった。アイが特に心を尖らせて、自身の環境を見つめていたからだ。
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