そうして大人になっていく『まく子』西加奈子


 かつて、私は『ピーター・パン』の世界に憧れたことがある。夜、大人が寝静まった頃に、ピーター・パンが迎えに来てくれないかとドキドキしながら待っていた。

 

 

 もちろん、そんなことは起こるはずもなく、私はネバーランドに行けないまま、大人になった。

 

 

 当時の私は、小学生の半ばくらい。西加奈子先生の『まく子』を読んだのは、この頃。体育の授業の前の休み時間、男子と着替える教室が分けられたのも、ちょうどこの時期だった。

 

 

 私はだんだんと丸みを帯びて膨らんできた自分の胸が、嫌で嫌で仕方がなかった。同級生の子たちが嬉しそうにしているのを、ちっとも理解できなかった。

 

 

 膨らんだ胸や、男の子たちに比べて細く長く伸びていった身長は、大人になった証のようにも思えた。それがたまらなく嫌だったのだ。

 

 

 私の母はスタイルが良くて、美人だ。けれど、同時に何人もの男の人といっしょに付き合っていることを、私は小さい頃から知っていた。

 

 

 私にとっての「大人になる」ことは、母のようになることだった。私には、母が汚い存在のように思えて、それに近づくことが嫌で嫌で仕方がなかったのだ。

 

 

 だから、私は『まく子』の慧の気持ちが痛いほどよくわかったのだ。

 

 

 彼は大人になっていく女子たちを気持ち悪いと言った。彼自身は、浮気を繰り返している父親が嫌いで、大人になることを嫌がっていた。

 

 

 けれど、彼の身体は逆らうこともできず大人になっていく。彼がコズエと会ったのは、そんな頃だった。

 

 

 信じられないほどキレイだけれど、変わった女の子のコズエ。彼は他の女の子たちとは、どこか違っていた。

 

 

 最初はあまり近づかなかった二人は、慧が好きな場所で偶然出会って以来、何度も二人だけで会うようになる。

 

 

 やがて、彼はコズエから衝撃的な真実を告げられた。物語は、彼の成長とともに思わぬ方向へと飛び出していく。

 

 

 当時の私にはドキッとするような表現が多くて、思わず周りを気にしながら読んだものだけれど、その後何度も読み直すくらい好きな作品になった。

 

 

 当時の私にとって大人になることは、何よりも怖ろしいことだった。保険の授業で習った時なんて、思わずぞっとしたものだ。

 

 

 自分の中から大量に溢れてくる、見るのもおぞましい、ソレ。私は、その醜いものこそが、自分の正体で、それをありありと見せつけられているように感じたのだ。

 

 

 当時は男の子のことが羨ましかった。彼らはまだ子どものままでいるように感じていたからだ。彼らのように、私も子どものままでいたかった。

 

 

 けれど、余裕をもって当時を振り返ることができる今は、あの頃は男の子たちも、内面はともかく外見は見えないところで大人に近づいていて、大変だったのかも、とも思う。

 

 

 大人になりたいと願っていた私は、成人をとっくに通り越して、世間的には大人と言われる年齢になった。

 

 

 けれど、何を以て大人となるのか、今でもはっきりとしない。すっかり大人になったと感じる時もあれば、まだまだ子どものままだと感じる時もある。

 

 

 あの頃は偉い人だと思っていた大人も、自分がなってみればたいしたことはない。それっぽいことを、それらしく言うのが上手くなっただけ。

 

 

 大人は子どもの延長線上。まさにその通りだ。結局、大人も子どもも、根本のところはたいして大きな違いはないのだろうとも思う。

 

 

 私たちは大人になることを「成長」だと言うけれど、私はむしろ、退化しているんじゃないかと思う。

 

 

 みんなで飾り付けた神輿を壊されるとき、涙を流せる純粋な心は、大人になると、笑顔で神輿を壊す側になってしまう。

 

 

 いろんなことを経験する中には、世の中の矛盾や理不尽、余計なルール、しがらみなんてものも、たくさん混ざっている。

 

 

 私たちはそれを知って、次第に涙を流せなくなっていくのだ。それが良いことだとは、私にはとても思えない。

 

 

 私たちは世の中に溢れている汚いものを溜めて、溜めて、溜め込んで、その内圧に耐え切れず身体が膨らんで、そうして大人になっていくのだ。

 

 

 私はもう、ネバーランドには行けないだろう。純粋に憧れていた、きれいだったあの頃の私と比べて、今の私は、ほら、こんなにも汚れてしまったのだから。

 

 

彼女はまくことが好きだった

 

 まくことが好きなのは、男だけだと思っていた。いつだって何かをまいているのは、男だ。

 

 

 例えば節分の日、豆をまく人たちだって、女より男の方がはしゃいでいるし、ぼくのクラスメイトでも、砂場の砂を投げつけてくるのは、いつだって男子だ。

 

 

 そういう子供っぽい時期を、ぼくたちより早く通り過ぎてしまったからか、クラスの女子たちはいつも、騒いでいる男子を、いやーねって顔で見ている、

 

 

 女子たちは、猛スピードでどこかへ行こうとしていた。きっとそのどこかは「大人」や「女性」や、その類いなのだろう。

 

 

 でも、ぼくにとって女子は、大人や女性に向かっている人間というよりは、どんどん得体の知れない何かに変身してゆく化け物みたいに見えた。

 

 

 そんな女子たちを、どんどん嫌いになっている自分が、ひとりだだをこねているようで、みじめだった。

 

 

 そんなとき、ぼくはコズエに出会った。コズエは、まくのが好きだった。大好きだった。とにかくコズエは、なんでもまいた。

 

 

 コズエは、得体が知れなくなかった。コズエは、何かに向かっているような感じがしなかった。コズエそのままで、きちんと足りている、そんな感じだった。

 

 

 コズエがぼくらの集落にいたのは、ほんの少しの間だ。でも、ぼくはコズエの姿を、今も思い出す。コズエがコズエとして、まるのままでいてくれたあの時間を、ぼくはすべて、はっきりと思い出すことができる。

 

 

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