馬と過ごす夜の世界『くらやみに、馬といる』河田桟


 『くらやみに、馬といる』を読んだ時、私はどうにも共感することができなかった。

 

 

 昔から、暗闇が苦手だった。暗所恐怖症、というほど強迫的なものではないが、いつも明かりの下に身を置きたいという考えは常に持っていた。

 

 

 ただ、不便、というのではない。もっと根源的で、抽象的で、本能的なものだった。怖い、というひとことで表せることではないのだ。

 

 

 暗闇の中に何があるか、何がいるのかわからない。私が眠るベッドの下に、男が潜んでいても、暗闇では気づきようがない。その幻の獣が怖いのか。

 

 

 いや、あるいは、暗闇そのものへの、恐怖。たとえ周りに人がいたとしても、暗闇の中は孤独で、静謐だ。音は全て暗闇の奥から聞こえてくる。それが現実だとは誰にも言えない。

 

 

 暗闇の中にいると、まるで怪物に呑み込まれたかのように感じていた。私という存在の輪郭が、暗闇の胃袋の中で有象無象とひとつに溶け合っていく。

 

 

 『くらやみに、馬といる』でも、そう感じているらしい。しかし、これを書いた彼は、輪郭を失い、ひとつになることに安心感を感じているようだった。

 

 

 彼の周りに人はいない。馬だ。カディをはじめとする、馬たちが彼の周りにいる。

 

 

 暗闇に身を置くうちに、彼と馬たちは暗闇の中でひとつの存在となった。彼がいても馬たちは騒がないし、彼もまた、馬の群れの中にいた。

 

 

 小さな、横長の本。それなのに、今まで読んだどんな本よりも、長く、深いように思えた。

 

 

 ページのそこらには、暗闇の中の馬の写真がある。まるで影のような姿が、曖昧に馬の顔を象っていた。

 

 

 いや、果たしてそれが馬だと、どうしてはっきりと言えるのか。明かりの下でしか真実は見えない。暗闇は全てを覆い隠している。

 

 

 私は、不安なのかもしれない。あの暗闇は、疑心を、恐怖を、停滞を与えてくる。私の心に、染みこんでくる。

 

 

 蛍光灯がちかちかと明滅していた。ああ、切れるかな。とか思っていたら、バチンと音がして、明かりが消えた。停電だった。

 

 

 突如訪れた暗闇。私は身体を丸めて、じっと目を閉じた。どくん。どくん。自分の心臓の音が聞こえる。

 

 

 ああ、飲み込まれる。私という存在が、消えていくのを感じた。不安が、恐怖が、猜疑が波のように打ち寄せる。

 

 

 ふと、顔を上げた。たしかに、聞こえた。馬のいななき。気のせいに決まっている。ここは森ではないのだから。

 

 

 しかし、とても空耳だとは思えなかった。私は頭を抱えていた手を伸ばす。ざらざらした硬いものに触れた。木肌。小鳥の声。そんな馬鹿な。

 

 

 馬が、周りにいる。そんな気配があった。気のせいだと自分に言い聞かせても、それが消えることはなかった。

 

 

 彼らはしかし、私に注意を払っていないようだった。私を追い出そうとも、探ろうともしない。優しい無関心がそこにはあった。

 

 

 受け入れられている。そう感じた。馬たちへの恐怖心が薄れていく。それどころか、かすかな親しみすらも覚えていた。

 

 

 彼らの気配に少し身を寄せた時、明かりがよみがえった。そこはもちろん、慣れ親しんだ私の部屋で、森なんかじゃない。馬の群れもいない。

 

 

 普段は感謝している明かりを、私は思わず睨みつけた。もう少しで。はっとする。もう少しで、なんだろう。私は何を見出したのだろう。

 

 

 しかし、ひとつだけわかったことがある。なんだ、暗闇も、そんなに悪くないじゃないか。

 

 

 何も見えないからこそ、見えるものがあるのだと、私はその時ようやく知った。

 

 

暗闇に溶けていく

 

 馬が、くらやみでどんなふうに過ごしているかを知ったのは、相棒カディが病気になった時だ。

 

 

 カディが若馬の頃、疝痛でひと月ほど苦しんだことがあった。私は毎日できるかぎり付き添い、夜は三時間ごとに目覚ましをかけてカディの様子を見に行った。

 

 

 普段は早寝早起きの生活をしているから、夜中にカディの暮らす森へ入っていったのはこの時が初めてだ。

 

 

 馬たちが暮らす森が集落から離れている。県道からその場所へ続く脇道に入ると人のつくった光はもう見えない。

 

 

 夜の森は昼と違う匂いがした。よく知る場所なのに、どこか知らない国に来たようだった。

 

 

 幾度も訪れる度に少しずつ、夜の森とそこにいる馬たちの気配に私は馴染んでいった。おそらく馬たちもそうだろう。

 

 

 馬たちは夜中でも大抵草を食べていた。何かに触発されて、暗闇の中で走り回ることもあった。

 

 

 時折、馬たちは眠りについた。立ったままぼうっとしたり、ごくたまに頭も肢も地面に投げ出して束の間の深い眠りに入ったりする。

 

 

 群れでひとかたまりになって眠ることが多いのは、誰か一頭でも危険に気付けば、その気配に連動し、他の馬も瞬時に目覚めて動くことができるからだろう。

 

 

 カディの容態にようやく回復の兆しが見えてきたある晩、私はカディのかたわらで一息ついてぼんやりしていた。手元を照らすライトを消した。

 

 

 光がなくなり、見ていたものが見えなくなった。自分の身体も見えなくなった。まるで自分という存在の輪郭が消えてしまったようだった。

 

 

 カディの息遣いが聞こえた。少し離れたところに他の馬たちの気配があった。とても静かだった。

 

 

 ふと、ここは、馬たちの世界だ、と思った。

 

 

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