まるで足が棒のようだった。あんなに聞きたかった鳥の声も、あんなに見たかった新緑の木々も、もう何も目に入らない。
そうだ、山に登ろう。そう思ったのは、つい先日のことだった。なぜそう思ったのか。そこに山があるからだ。
なんてわけではなくて、仕事が上手くいかなくて、疲れてしまったからだった。
ただ、私は山未経験。そんな私がどうして山? というと、吉玉サキ先生の『山小屋ガールの癒されない日々』を読んだからだ。
その本は図書館の新刊コーナーで偶然見つけたものだけれど、よくある登山を勧めてくるような雑誌とはちょっと違う。
そういった本はとにかく山の美しさだとか登山の素晴らしさを推してくるものだけれど、どうも私はそんなのは嘘くさく感じてしまう。
けれど、その『山小屋ガールの癒されない日々』は、山小屋のお仕事の内実を描いたエッセイだ。
そこには素晴らしいものばかりじゃない。山小屋で働く人たちの、山ならではの苦労がある。
だからこそ、私には、その合間に見える山の良さが一層眩しく見えた。だから、休暇をとって山に登ってみることにしたのだ。
しかし、早くも私は後悔し始めていた。運動オンチが突然登山なんてあまりに無謀すぎたのかもしれない。
せめて北アルプスなんかじゃなくて高尾山くらいにしとけばよかった。一気にハードルを上げ過ぎたような気がする。
ふもとの辺りはまだよかった。周りの景色はとてもきれいで、心癒された。そんな余裕はなくなってしまったけれど。
追い抜いていくおじいちゃんが「がんばれ」と声をかけてくれる。どうしてそんな涼しい顔で登れるのだろう。でも、知らない人と声をかけ合えるのも、山のいいところかもしれない。
足が痛い。呼吸が苦しい。でも、足を進めなければならない。額から汗がしたたり落ちた。
けれど、どうしてだか、それがちっとも不快じゃない。むしろ、そうしている間は下界のことを何も考える必要なんてなくて、ただ山のことだけを考えていた。
もう少し。もうちょっと。少しずつでも、前に進んでいく。やがて、山のことすらも頭から消えて、何もなくなっていく。
それはまるで、山と一体になっていくかのようだった。私という存在が溶けてなくなって、山とひとつになったような。
『山小屋ガールの癒されない日々』の吉玉先生は、山から下りた場所のことを下界と呼んでいた。その気持ちが今、わかったような気がする。
山は日常の延長にあるんじゃない。そこにはまた別の世界があるのだ。下界のことなんて忘れて、次第に山へと染まっていく。
遠くに、中継地点が見えた。小さな山小屋。その瞬間、私の胸に達成感と喜びが溢れてくる。
ああ、そうか。このために、山小屋はあるんだ。山を登る人が休む止まり木。それは、登山をする人たちからしてみれば、何よりも安心できる「家」なのだ。
山小屋での日常
23歳の時、初めて北アルプスの山小屋でバイトをした。当時の私は登山未経験。山小屋が何か、よくわかっていない。
そんな私が、なぜ山小屋で働こうと思ったのか? それは、幼馴染のある言葉がきっかけだった。
小さな広告代理店に就職した私は、働き始めてすぐに心の調子を崩してしまった。どうにも仕事を続けられなくなり、結局わずか数か月で会社を辞めた。
実家に戻り、レストランでバイトを始めたものの、またもや数か月で退職。ニートになってしまい、そんな自分に落胆していた。
仕事を探さなきゃ、と焦る。だけど、また続かなかったらどうしようと思うと、怖くて動き出せない。二回連続で仕事が続かなかった私は、すっかり自信を失っていた。
そんなとき、幼馴染のチヒロは地元に帰ってきた。私は、仕事が続けられない悩みをチヒロに打ち明けた。
「山小屋で働けばいいじゃん!」
私は思い切ってチヒロが働いていた山小屋に履歴書を郵送した。するとしばらくして、あっさり採用の手紙が来た。こうして私は、山ガールならぬ「小屋ガール」になった。
その時の私は、まるっきり登山をしたことがなかった。アウトドアもスポーツもしないし、自然にも興味がない。
そんな私が、バイトに出勤するため生まれて初めて登山をした。初めての山小屋は、私にとって衝撃の連続だった。山小屋は、私の常識をはるかに超えた世界だった。
山小屋の仕事はハードで、体力的にはキツかったけれど、毎日が充実している。その翌年も、私は山小屋で働いた。さらにその翌年も。そんなこんなで、気づけば10年も山小屋で働いていた。
山小屋に行ったことで、私の人生は大きく変わった。大切な友人がたくさんできたし、人生の伴侶とも出会った。山小屋が、私の人生を変えてくれた。
だけど、私は山小屋を辞めた。書くことを仕事にする夢を諦めきれなかったからだ。
毎週、原稿を書くたびに私は山小屋のことを思い出す。懐かしいし、たまに戻りたいと思うこともある。
だけど、戻らない。大好きな山小屋の日常を、文章で伝え続けたいから。
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