若き建築家のひそやかな恋『火山のふもとで』松家仁之


 遠くかすかに浅間山が見える。軽井沢は避暑地としても有名らしいと知ったのは、来ると決めて電車に乗った後のことで、私は夏に来ればよかったと、ほんの少し後悔した。

 

 

 そもそも、軽井沢に来ようと決めたのは、仕事に疲れたからだった。それは突然の衝動ではなく、胸中に毎日汚泥のように積み重なっていたものだ。

 

 

 時間が欲しかった。誰も私のことを知らず、誰も私のことを気にしない場所で、ひとり、何も考えずにただ時間が過ぎ去るのを待ちたかったのだ。

 

 

 そう迷っていた時に、『火山のふもとで』を読んだのは偶然だったのかもしれないけれど、私自身には、天啓に思えた。

 

 

 まさか、貸してくれた上司も、私がその本に触発されて数日間の有休をとり、軽井沢に行こうとするなんて思ってもみなかったに違いない。

 

 

 軽井沢が避暑地だと知って、作中の設計所の面々がどうして夏になると軽井沢に事務所を移転するのか、その理由がわかったような気がした。

 

 

 『火山のふもとで』は夏の間の、小さな設計事務所での物語である。タイトルの火山は、言わずもがな、浅間山のことだ。

 

 

 「ぼく」が入所した村井設計事務所は夏になると、軽井沢の「夏の家」に移転する慣わしがあった。

 

 

 所長である村井俊輔は使う側の視点で物を考え、質実で美しい建物を設計してきた建築家である。作品は少なくとも、設計事務所で働く彼らは所長を「先生」と呼び、慕っていた。

 

 

 「ぼく」もまた、先生の建築に惹かれて入所を決めた建築家のひとりである。そして、彼はそこで先生の姪である麻里子と出会う。

 

 

 先生は、「ぼく」と麻里子を結婚させようと考えている。麻里子からそう聞かされる。「ぼく」と彼女は次第に惹かれ合うようになっていく。

 

 

 事務所は現代図書館のコンパで慌ただしかった。入所したばかりの「ぼく」も交えた所員全員で、図書館の設計について議論を繰り返す。

 

 

 しかし、そんな時だった。事務所の存続すらも危ぶまれるほどの危機が、彼らを襲ったのは。

 

 

 建築に対する彼らの飽くなき情熱と、それと相対するような、物静かで、ひそやかな恋。

 

 

 しかし、何よりも私を惹きつけたのは、彼らの住まう「夏の家」を取り巻く風景、雰囲気だった。

 

 

 どこか寂寥感を感じる繊細な風景描写と、人の手のない自然の美しさ。そして、それら全てを内包する浅間山の、奥底に眠り脈動する熱。

 

 

 この場所だ。この場所が、私を呼んでいる。その時、私はたしかに、胸の奥に響くその声が聞こえたような気がしたのだ。

 

 

 とはいっても、せっかく避暑地なら夏にすればよかったと、後悔中なのだけれど。いや、ずるずると引き延ばせば、行けなかったかもしれない。今だからいいのだ。

 

 

 何気なく視線を泳がせたそののどかな風景を、視線のカメラに収める。私はふと思い立って、自分のカバンから画材道具を引っ張り出した。

 

 

 絵を描くのは昔から好きだった。働き始めてからは、長く絵を描けていない。けれど、今なら、時間も題材もいっぱいある。

 

 

 さらさらと鉛筆を走らせて、下絵を書き上げていく。まるで世界に私しかいないかのように静かだった。その静けさが、身に沁み込むように心地よかった。

 

 

 それはまさに、『火山のふもとで』の文字のひとつひとつから伝わってきた静けさそのもの。そのことが、私の心に緩やかな喜びを与えてくれる。

 

 

 今の世の中に、静かなところはほとんどなくなってしまった。車のエンジン音、隣人の生活音、子どもの泣き声、電車の揺れる音、音はいつでも私の隣りにいて、ひとりきりになることがない。

 

 

 音を立てない優しさ。話しかけない優しさ。自然のささやきだけが響く道に、私の鉛筆が画用紙の上を走る音だけが、響いている。

 

 

若き建築家の青春

 

 「夏の家」では、先生がいちばんの早起きだった。夜が明けてまもなく目が覚めたぼくは、狭いベッドに身を横たえたまま、階下の先生の気配にじっと耳を澄ませていた。

 

 

 先生は散歩に出ていったようだ。夜の森で冷やされた空気が、網戸ごしにゆっくり入り込んでくる。「夏の家」はまた静まり返る。

 

 

 日の出のしばらく前から空は不思議な青みを帯び、すべてをのみこんでいた深い闇から森の輪郭がみるみるうちに浮かび上がってくる。

 

 

 ベッドを抜け出して中庭に面した小さな窓のブラインドをあげる。霧だ。先生がこんな森の中を散歩しているのか。道に迷ったりしないだろうか。

 

 

 まもなく先生は帰ってくるだろう。あと一時間もすれば、ほかのスタッフも起き出してくるはずだ。

 

 

 北青山の住宅街の見落としそうな路地に、村井設計事務所はひっそりとあった。

 

 

 毎年、七月の終わりから九月半ばまで、この北青山の事務所は半ば開店休業状態になった。青栗村にある「夏の家」へ、事務所機能が移転するからだ。

 

 

 移転の準備に入ると、事務所はにわかに慌ただしくなる。入所してまだ四ヶ月足らずのぼくは、とりたてて準備をしておくべきことも思いつかず、ただ料理当番に備えて初心者向けの手引きを一冊手に入れておいた。

 

 

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