世界が終わった。でも、たとえ世界が終わっても、私は良かったと思う。だって、そのおかげで、私は彼といっしょになれたのだから。
「『塩の街』って、読んだこと、ある?」
私が聞いてみると、彼は「小説か?」と聞いてくる。私が頷くと、彼は記憶を辿るように視線を泳がせて、けれど、思い出せなかったのか、降参だと言わんばかりに肩を竦めた。
『塩の街』は有川浩という作家さんのデビュー作だ。『海の底』や『空の中』と並んで「自衛隊三部作」と呼ばれている。
「その作品の中ではね、人が塩になるの。身体がどんどん塩に変わっていって、最後には全身が塩になっちゃう」
「それは怖いな」
「世界中のほとんどの人がその被害に遭っちゃってね、交通機関も動かないし、配給で生きるような世界になってしまうの」
「似ているな」
彼が思わずといったふうに呟いた。私は頷く。彼が何を頭の中に思い出したのか、言葉にせずともわかっていた。
世界が終わったのは、三ヶ月前のこと。『塩の街』みたいに人が塩になったわけじゃないけれど、多くの人が命を落とした。あまりにも突然のことだった。
交通機関は停止し、テレビもただの置物となった。法律は意味を成さなくなり、自暴自棄になった人たちが好き放題に暴れまわった。
私もその被害に遭った。彼が助けてくれなかったら、私はいったいどうなっていただろう。
私はその時、「人間」という生き物の本当の姿を垣間見た気がした。
いくら文明人を気取っていても、ひとたびその皮を剥がせば、他の動物と何ら変わらない、欲望だけで動く「ケダモノ」が現れる。
もうとっくに呑み込んでいるけれど、かつての世の中も今にして思えば悪くはなかったなと思う。
誰もがつまらなさそうで、未来は真っ暗で、ままならないことが多い世の中だったけれど、紛れもなく平和だった。たとえ薄氷の上だったとしても、平和なことに変わりはなかった。
失って初めて平和の中に守られていたことを知るなんて。そうも思うけれど、きっと、そんなものなんだろうね。どんなことでも。
世の中は変わった。人間の本質は変わらない。でも、変わったこともある。悪いことばかりじゃない。そう思うんだ。
世界が終わるからこそ、生まれたものもある
「『塩の街』では、真奈ちゃんっていう女の子と、秋庭さんっていう男の人が出てくるんだよ」
有川浩先生の作品は、なんといっても恋愛が魅力だと思っている。一生懸命に恋をしていて、哀しい時もあるけれど、それもまた、きれいでかわいい。
「でも、この二人って、世界がこんなふうにならなかったら、会わなかったんだよね。世界が終わったおかげで、なんて言ったらおかしいけれど、二人は会ったの」
世界が終わって、法律も何もかもがなくなると、人間の本当の姿が見えてくる。
欲望のままに「ケダモノ」になる人もいるし、醜い性根を見せ始める人だっている。
けれど、その分だけ、どんな時であっても人に優しくできる人もいる。何の見返りがなくても、ただ人を助けたいから助ける人がいる。
終末はよくも悪くも世界をありのままの姿にした。人間が作り出した面倒なルールや仕組みをみんな壊して。
「俺は見返りがなくちゃあ動かないけどな」
彼はにやりと笑って言う。そうだね、と私は悪戯げに笑った。否定しろよ、と軽く小突かれて、二人で笑い合う。
彼とは家が隣同士の幼馴染だった。仲は良かったけれど、付き合ったことはない。互いに別々の道を歩んで、互いに別々の人と付き合っていた。
彼が私を助けたのは、実は偶然ではないらしい。いかにも偶然通りかかったような態度だったけれど。
実は、彼は私が物陰に引きずり込まれていくのを見て、慌てて助けに行ったのだという。どうしてその現場を見たかというと、彼が私をずっと気にかけていたから、らしい。
「ずっと好きだったんだ。でも、勇気がなかった。今の心地よい関係を崩したくなくて。でも、ずっと君を見ていたんだ」
私もそうだった。彼が別の女の子と付き合っていた時、からかいながらも胸が痛かった。でも、「好き」の一言を言うことができなかった。
彼が助けてくれたことをきっかけに、ひとり暮らしだった私は彼の家に身を寄せるようになった。
告白は彼からだった。世界が終わり、いつ私たちにも終わりが訪れるか分からない。そんな不安定さが、私たちの間の均衡を壊した。
きっと、不謹慎だと言われるだろう。でも、私は幸せだった。たとえ世界が終わっても、その瞬間まで、私は彼といっしょにいられるのだから。
世界がこうなったから、二人は出会えた
両肩にリュックの肩紐がきつく食い込む。重さはすでに痛みと同義になっている。あげく、脳天を灼くような初夏の日差しが、刻一刻と体力を奪っていく。
そのうえ、すきっ腹ももう限界だ。最後に食べたのは食いつないでいたカロリーメイトが一本、それで丸二日歩きづめだ。
東京ってこんなに遠かったんだなあ。交通機関が生きていたら、在来線を乗り継いでも三時間はかからない距離だ。
辺りには鄙びた町の商店街ほどの人通りしかない。街のあちこちに林立する風化しかけた白い柱が、そのうらぶれた風景をより寂しく引き立てている。
背中の荷物がひと際重くのしかかる。そろそろ体力の限界なのか。痛い。疲れた。腹減った。どう呟くか決めかねている間に、遼一は道に倒れ込んでいた。
「あの――大丈夫ですか? もしもし?」
意識を失っていたのはどれくらいの間か。目を覚ましたのは、少し舌足らずな声に呼ばれてだった。
薄く目を開けると、スーパーのビニール袋を提げたジーンズ姿の女の子が、腰をかがめて遼一を見下ろしていた。
お腹がすいていると伝えると、女の子はリンゴをひとつ手渡した。遼一はシャツでこすってから、リンゴにかぶりついた。あっという間に果肉を食い尽くす。
元気になった、と言いつつ立ち上がるが足元はまだ少しふらついた。女の子は心配そうに遼一を見ている。遼一はゆっくりと辺りを見回した。
「海――どっちかな」
唐突な問いに首を傾げた女の子が、少し考えてからある方向を指差した。指を指した彼方に、ビル群から斜めに突き抜けてとびえる白い塔のような物体が見えた。あそこは東京湾だ。しかし。
「それじゃダメだなあ。きれいな海に行きたいんだ。きれいであったかい海。知らない?」
しかし、女の子はわからないと答えた。軽く手を振って礼を言って歩き出そうとした時、女の子が釣られたように手を出して遼一のシャツの裾を引いた。
呼び止めたものの切り出し方を迷っているように、女の子は言葉を探している。やがて、逡巡しながら顔を上げた。
「あの……あたしの大家さんのとこ、来ませんか?」
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