イデアとメタファー『騎士団長殺し』村上春樹


 私の人生は一枚の絵画から始まった。その絵画を見た瞬間、私の今までの人生はまったくの無意味なものとなったのだ。

 

 

 絵画とは、一枚の真っ白な切れ端に、ただ色を乗せていっただけに過ぎない。私にとってそれ以上でもそれ以下でもなかった。

 

 

 私の父は芸術が好きで、幼い頃、私はよく父に連れられて美術館を訪れていた。

 

 

 しかし、私は芸術が嫌いだった。父や、父と話す老人がなんだか偉そうに、いかに自分の持っている絵画が素晴らしいか語っているのを聞くたびに嫌気がさしていた。

 

 

 彼らにとって絵画は自分がいかにも教養があるかのように見せつけるための自慢する道具でしかない。そして、私にとってもただのくだらない紙切れでしかなかった。

 

 

 私に幼い頃から備わっていた芸術に対する極めてシニカルな視点は、やはり、父に育まれたのだろう。

 

 

 美術館で絵画を前に涙を流している人を目にしたときも、私は不思議でならなかった。

 

 

 ただのいくつかの色を重ねただけの紙切れに、いったい何を見出しているのだろう。私はそう首を傾げざるを得なかった。

 

 

 村上春樹先生の『騎士団長殺し』を読んだ時も、私は心底不思議に思ったものだ。

 

 

 主人公である『私』は画家である。六年間寄り添った妻に別れを告げられ、肖像画の仕事も断るようになり、かつては雨田具彦という画家が住んでいた家に住むことになった。

 

 

 ある時、『私』は屋根裏で奇妙な一枚の絵画を見つける。それは『騎士団長殺し』というタイトルが付けられていた。

 

 

 その絵の発見から、『私』の周囲では不思議なことが次々と起こり始めた。物語の中心には、いつだってその絵画の存在があった。

 

 

 『私』はその『騎士団長殺し』から何かを感じたのだという。そして、彼の描く肖像画もまた、何かを感じさせるものへとなっていく。

 

 

 だが、いくら絵画を見ても、私はその何かを感じることはできなかった。ただの絵の具でしかなかった。

 

 

「いずれ、お前にもわかる時が来るよ」

 

 

 父が私の頭を撫でながら言った言葉は、いったい何だったろうか。私はどうしても思い出せないでいた。

 

 

 父はもういなくなり、私は父と同じ年齢になった。それでも、未だに私にはその何かがわからない。

 

 

絵画に秘められたもの

 

 私は一枚の絵画の前で立ち尽くしていた。どれくらいの時間が経ったろう。一瞬のような気もするし、何年もこうしていたような気もする。

 

 

 しかし、私はその絵画から目を離すことができなかった。何の感動があるわけでもない。何の感慨があるわけでもない。私はその絵画をいつまでも見つめていた。

 

 

 なんというタイトルだったろう。『ひまわり』だとか、そんな単純なものだった気がする。ゴッホとかいう画家の作品だったはずだ。しかし、そんなことは些事でしかなかった。

 

 

 それは、他の絵画と同じ、ただの紙切れでしかないはずだった。それよりも美麗な絵画はいくらでもあるし、それもまた、ただの絵の具の重なりでしかないはずだった。

 

 

 被写体はただのひまわりだ。そこにドラマ性があるわけでも、陰惨な背景があるわけでもない。ただのひまわりに過ぎない。

 

 

 それなのに、どうしてだか、私はその絵画が視界の奥に焼き付いていた。頬に手をやって、指が濡れているのを見て、私は初めて自分が泣いていることに気がついた。しかし、理由はわからなかった。

 

 

 私は自分という存在がなくなっていくのを感じた。自分という存在が涙とともに溶けてなくなり、ひまわりを作り出す絵の具と混ざり合っていくように思えた。

 

 

「お父さんはね、昔、ある一枚の絵を見たんだ」

 

 

 父の言葉が思い出される。生前の頃は耳を傾ける気にもならなかったその言葉が、今は素直に頭の中に溶け込んでいった。

 

 

「それは無名の画家が描いた一枚だった。技術は稚拙で、タッチもたどたどしい。とても名画とは呼べない代物だった」

 

 

 けれど。

 

 

「当時、父さんといっしょに絵画の評価をしていた審査員は、みんなその絵を推していた。もっと写実的で美しい絵があったにもかかわらず」

 

 

 不思議に思うかい? けれど、そのことを誰も不思議には思わなかった。それが当然だと知っていたからだ。それは、直接この目で見ないとわからないだろう。

 

 

「絵画には時折、何か得体の知れないものが潜んでいる時がある。今はわからないかもしれない。でも、いずれはわかる時が来るはずだ」

 

 

 その時、お前の人生は大きく変わるだろう。記憶の中の父の言葉は、さながら予言のように私の頭に響いている。

 

 

ある時、私の目の前に騎士団長が現れた

 

 今日、短い午睡から目覚めたとき、〈顔のない男〉が私の前にいた。ソファの向かいにある椅子に彼は腰かけ、一対の架空の目で、私をまっすぐ見つめていた。

 

 

「肖像を描いてもらいにきたのだ」

 

 

 顔のない男は私がしっかり目覚めたのを確かめてからそう言った。彼の声は低く、抑揚と潤いを欠いていた。

 

 

「おまえはそのことをわたしに約束した。覚えているかね?」

 

 

「覚えています。でもそのときは、あなたを描くことはできませんでした。そのかわり代価として、あなたにペンギンのお守りを渡しました」

 

 

 彼の手の中にはプラスチックのペンギンの人形が握られていた。彼はそれをガラスのコーヒー・テーブルの上に落とした。

 

 

 彼は半分顔を隠していた黒い帽子を取った。顔があるべきところには顔がなく、そこには乳白色の霧がゆっくり渦巻いていた。

 

 

 私は立ち上がり、仕事場からスケッチブックと柔らかい鉛筆を取ってきた。そしてソファに腰かけて、顔のない男の肖像を描こうとした。

 

 

 でもどこから始めればいいのか、それがわからなかった。なにしろそこにあるのはただの無なのだ。

 

 

 時間があまりない。急がなくてはならない。しかし鉛筆を握った私の指は宙にとどまったまま、どうしても動こうとはしなかった。

 

 

「悪いが、もう時間が切れた」

 

 

 顔のない男は少し後で言った。そして顔のない口から白い川霧の息を大きく吐いた。

 

 

 そして顔のない男は姿を消した。靄が突然の疾風に吹き払われるように、一瞬にして空中に消えた。

 

 

 それはただの短い夢のように思えた。しかしそれが夢でないことは私にはよくわかっていた。

 

 

 いつかは無の肖像を描くことができるようになるかもしれない。あるひとりの画家は『騎士団長殺し』という絵を描き上げることができたように。

 

 

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