どの殺し屋が好きですか?『マリアビートル』伊坂幸太郎


「電車の中ってのは密室みたいなもんだよな」

 

 

 彼は吊革につかまってゆらゆら揺れながら、ぼくに話しかけてくる。ぼくはうん、とひとまず彼に視線を向けた。

 

 

 彼がいつものようににやにや笑っている。彼は大のミステリ好きで、密室だとかトリックだとかについて話すときはいつもその笑みを浮かべていた。

 

 

 ぼくはひそかにため息を吐いた。ぼくもそれなりに小説を読むから、ミステリは嫌いじゃないのだが、彼は何しろ話が長いのだ。

 

 

 ましてや、電車の中で立っている時には聞きたくなかった。スクールバッグがぼくの気分の分まで詰まったかのように重たくなった気がした。

 

 

「アガサ・クリスティのさ、『オリエント急行』なんか有名だよな。電車の中で事件が起こる」

 

 

 電車が大きくぐらりと揺れる。ぼくの目の前に座って眠っているサラリーマンがううんと呻いた。けれど、目を覚まさない。よほど熟睡しているらしい。

 

 

「でも、事件が起こったとして、どこに逃げればいいんだろうな。飛び下りたらひき肉だ。でも、電車の中には犯人がいる。そこらの密室よりもよほど緊迫しないか」

 

 

「たしかにね。でも、密室というには明らかに違うことがあるけど」

 

 

 ぼくが言った直後、電車が止まる。ドアが開き、中に乗っていた人の波が流れていく。まるで彼らが喉に詰まっていたかのように息苦しさがスッと抜けるような気がした。

 

 

 けれど、それは一瞬の間だけだった。外から新たな波が流れ込んできて、さっき以上に電車の中は人でいっぱいになる。

 

 

 ぼくと彼は人がいなくなっていた間に空いた席を陣取る。二人してほう、と息を吐いた。正面に立つ青年が一瞬だけぼくたちを羨ましげに見た。

 

 

「電車は停車して、ドアが開く。これじゃあ、密室なんて言えないんじゃないかな」

 

 

 ぼくが言うと、彼は顔の目の前でちっちっちっと人差し指をぴんと立てて振って見せる。よくそんな気取った仕草を恥ずかしげもなくできるもんだ。ぼくは内心呆れた。

 

 

「甘いな。降りられない理由を作ればいいのさ」

 

 

「自分に恨みを持つ男に絡まれたり、降りる直前に携帯を落としたり」

 

 

 彼がきょとんとした顔を向けてくる。

 

 

「なんだ、やけに具体的だな」

 

 

 それを聞いた時、ぼくの頭の中に浮かんでいたのは、一冊の本だった。伊坂幸太郎先生の、『マリアビートル』だ。

 

 

逃げ場はどこにもない

 

「『マリアビートル』って作品、わかる? 伊坂幸太郎先生の」

 

 

 知らないな、と彼は首を傾げて答えた。彼はミステリ好きだが、それ以外の本は大して好きというわけではない。

 

 

 『マリアビートル』は『グラスホッパー』の続編の作品だ。伊坂先生が殺し屋を主人公に描くシリーズである。

 

 

 電車の中を舞台にした、思惑や出来事が錯綜し合う群像劇。何人もの視点を切り替えながら進んでいく。

 

 

 だらしないが、子を想う良き父親の木村雄一。彼が電車に乗り込んだのは我が子を傷つけたひとりの少年を手にかけるためだった。

 

 

 その少年は王子という。中学生だ。容姿は無垢であるが、内面は計算高く、他人を思い通りに操ることに長けている。

 

 

 一方では二人の仕事人、蜜柑と檸檬。ペアを組んでいる彼らは仕事を終えて、依頼されていた金と依頼人の息子を送り届けるところだった。

 

 

 しかし、彼らから金を奪った者がいた。界隈では天道虫と呼ばれている、七尾という男だ。

 

 

 そんな彼らが電車の中で一堂に会す。協力したり、敵対したり、交渉したり、次々と展開が切り替わるハイテンポなサスペンスだ。

 

 

 ぼくはこの作品が好きだった。魅力的なキャラクターが多く、誰を見ても没入できる。

 

 

 彼に例として挙げたのは、七尾のことだった。彼は不幸体質で、あらゆる理由で本来下りるべき駅をいくつも過ぎてしまうのだ。

 

 

 伊坂先生の作品は伏線が多く仕込まれている。そして、それが最後に一気に回収されることから生まれるエンターテインメントが彼の持ち味だ。

 

 

 けれど、ぼくがこの作品をおもしろいと思うのは、この作品がそう言った読者をことごとく騙していくからだ。

 

 

 伏線のような言葉が、次々と覆されていく。かと思えば、意外なものが意外な形で再登場する。ぼくたちはめまぐるしい展開に振り回されることしかできない。

 

 

 伊坂先生の作品の愛読者であるほど、この作品には騙されてしまうだろう。彼のファンには、ぜひとも読んでほしい作品だった。

 

 

「お、着いたな」

 

 

 電車が目的の駅に到着したらしい。ぼくと彼は立ち上がって、開かれたドアから降りた。ぼくたちが下りた後の電車では、はたしてどんなドラマが描かれるのだろう。

 

 

裏社会の仕事人たちを乗せて電車は走る

 

 東京駅は混んでいた。久しぶりに来た木村雄一からすれば、その混雑が日常なものなのかどうかはわからない。

 

 

 木村は人の流れをやり過ごし、土産物店やキオスクの脇を抜け、速足で進んだ。短い段差を上り、新幹線の改札を抜ける。

 

 

 自動改札機を通り抜ける際、内ポケットに入れてあるものの存在を察知され、扉が閉じるのではないか、と恐怖を感じるが、そんなことは起きない。

 

 

 木村は、渉のことを思い出し、胸を絞られる。意識を失ったまま病院のベッドで横たわる渉の、幼く、無反応の姿が頭に蘇った。

 

 

 絶対に許さねえぞ。身体の奥底で岩漿が煮え立つ思いだ。六歳児をデパートの屋上から突き落とした張本人が、のんきに息をしていること自体が信じがたい。

 

 

 ホームにはすでに、〈はやて〉が出発を待っていた。気が急き、足早になる。三号車の前寄りのドアから車両の中に入った。

 

 

 通路を進んで、七号車に入る。予想以上に空席が多く、乗客がぽつぽつといる程度だった。五列目の座席の窓際に少年の後頭部が見えた。

 

 

 木村はゆっくりと近づく。目の前で大きな火花が散った。新幹線の電気系統が故障したのだ、と最初は思った。見当外れだった。

 

 

 少年が素早く振り返り、手に隠し持っていた器械を、木村の太腿にぶつけてきた。スタンガンだ、と察した時には、木村の全身の毛は逆立ち、身体の芯が麻痺している。

 

 

 目を開けた時には窓際の席に座らされていた。体の前で、両手首が縛られている。足首も同様だった。

 

 

 すぐ左側に座る少年が淡々と言った。

 

 

「どうしてこんなに思い通りになるんだろうね。人生って甘いね」

 

 

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