深海から脅威が襲いかかる『海の底』有川浩


 未知の生物が襲ってくるとしたら、どこから現れるだろうか。宇宙から、あるいは、海底から、か。

 

 

「有川浩先生のさ、『海の底』って作品、読んだことあるか」

 

 

 いや、ないな。私は首を横に振る。書店の店頭で見た覚えがないこともないが、読んだことはなかった。

 

 

「海から謎の生物が襲いかかってくるって話だ。子どもたちを守って潜水艦に閉じこもる自衛隊の若者二人と子どもたちとの生活、そして、警察組織による謎の生物との戦いが描かれている」

 

 

 彼はどちらかというと冷淡な男で、自分の趣向を面に出すことは少ない。それほどその作品が好きなのだろう。

 

 

「主人公と呼べるのは、潜水艦に閉じこもった自衛隊の夏木って男だ。だが、俺が好きなのは、外で謎の生物と戦う警察の方なんだ」

 

 

 敵の生物と決死の覚悟で挑む前線と、彼らを守るために敵の正体を暴き、政治的なやり取りを調整する後方のドラマこそが、彼の琴線に触れたのだという。

 

 

「敵の生き物ってのが、身体が大きい上に頭が良い。警察の武器なんかじゃあとても敵わないんだ。そして、そのことを本人たちもわかっている」

 

 

「自衛隊は動かないのか」

 

 

「上層部のプライドと組織同士の軋轢のせいで動けないんだ。そこで描かれるのは、トップをいかにして動かそうとするかっていう戦いだ」

 

 

 くだらない。思わずそう吐き捨ててしまった。が、彼はだよなと頷く。頭の固い連中のプライドのために、犠牲になるのはいつだって現場だ。

 

 

「俺が好きなのは警察が敵に対して向かっていくところだ。彼らは命がけで戦うのさ」

 

 

「勝てるのか」

 

 

 私の問いに、しかし、彼は首を横に振る。

 

 

「彼らは負けて、恥をかくために戦うんだよ。打つ手もなくぼろぼろに負けて、上層部に『警察では対処できない』ということを頭の固いやつらに伝えるためにな」

 

 

 勝つために戦うのではなく、負けるために戦う。負けることをわかっていて、命の危険があることも知りながら、それでも戦いに挑む。

 

 

「俺はな、誰よりも彼らをかっこよく思ったんだ。プライドじゃあない。負けるための戦いに彼らが挑んだのは、もっと大切なものを知っていたからだ」

 

 

 俺はその姿をかっこいいと思った。憧れた。そう言った彼の頬は紅潮していた。それほどまでに、彼はその敗北する彼らの姿に魅了されたのだ。

 

 

「だから、今、俺はここにいるんだ」

 

 

 彼のその決意を秘めた表情を、私はこの先、忘れることはないだろう。彼の姿を見たのは、この時が最後だった。

 

 

大切な人たちを守るために

 

 侵略者は海からやってくる。私は『海の底』ではなく、『パシフィック・リム』を思い出した。

 

 

 私が『海の底』を読んでみたのは、行方不明者の一覧に彼の名前を見つけてから随分と後のことだ。

 

 

 おもしろいと感じた。しかし、読んでいると、どうしても彼の顔が頭の中に浮かんでくる。

 

 

 敵わないと知りながらも、何かを変えるために戦いに挑む正義に憧れ、この道を進んだ彼の最期は、はたして彼の憧れたものだったろうか。

 

 

 彼を含めた多くの人たちの敗北によって、私たちは何を得ただろう。諦観か、憤怒か、それとも反省か。

 

 

 いや、何も得ていないのだろう。日本という国は敗北を恥とする。だからこそ、敗北を認めない。敗北から目を反らし、敗北から学ばない。戦時中から何ひとつ成長していないのだ。

 

 

 凝り固まった伝統とプライドは、日本人の誇りであり、弱点でもある。彼らの敗北から学ぶべきだったのに、私たちはそれを怠惰によって放棄した。

 

 

 その結末がこれならば、自業自得なのかもしれない。私は、彼の敗北を無意味なものにした私自身が許せなかった。だから、きっとこれでいいのだ。

 

 

 この結末が彼への贖罪になるわけではない。むしろ、私の罪は償うことはできないだろう。だが、彼と同じところに行けば、謝ることくらいは許してもらえるだろうか。

 

 

 キシキシという音が向かってくる。襲いかかっていた友の仇に、私は負けると知りながらも、最期まで抗うと決めたのだ。

 

 

海から現れる脅威

 

 米軍横須賀基地には、年に数回市民に開放される日がある。春の桜祭りもその一つだ。だが、そんな桜祭りの盛況も停泊中の海上自衛隊潜水艦の乗務員にはあまり関係のない話だ。

 

 

 この日、潜水艦埠頭には海上自衛隊が誇る最新のおやしお型潜水艦が二日前に入港して停泊中だった。近年就役したばかりの十一番艦『きりしお』である。

 

 

 『きりしお』内の乗員はこのとき二十数名。その中に二名の実習幹部が含まれていた。夏樹大和三尉と冬原春臣三尉である。

 

 

 艦内には警報が鳴り響いていた。出向予定は二週間ほど先だし、そもそも停泊中だから乗員は三分の二が上陸してしまっている。その状態で出航など、相当の非常事態が発生したことだけはわかるが――。

 

 

 狭い艦内を駆け抜け、発令所に辿り着くと、艦長が潜望鏡を使っているところだった。いったい何が起こったかと訊いた夏木に、艦長はわからんと率直に答えた。

 

 

 司令部からはとにかくただちに出航せよと命令が出ていた。それどころか、出航不能なら艦を退去して基地外へ避難せよとすら命令が出ている。ありえない事態だ。

 

 

 ガガガッと小刻みで鋭い衝撃が艦体を振動させた。一応は全員が耐ショック姿勢を取っていたにもかかわらず、何人かが転倒する。

 

 

 スクリューが何か固いものを噛み込んでいるらしい。それだけではない、キシキシという固い音が艦体を包み始めた。

 

 

 湾の中に何かがいる。それも凄まじい数だ。噛み込んだのも音の主か。一体外で何が起きているのか。

 

 

 ようやく順が来て上がった夏木は驚愕の叫びをあげた。後ろから上がってきた冬原もやはり唖然として呟いた。

 

 

 陸上を巨大な赤い甲虫――否、甲殻類が這い回っている。ザリガニをそのままメートル級に引き伸ばしたような。途方もない大群だ。

 

 

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