激しい咳が聞こえる。息できないと叫びたくても叫べない、そんなことすら思わせる咳に、思わず閉ざす扉を開けて駆け寄りたくなってくる。
しかし、それはできなかった。感染した患者と同じ部屋にいると、私まで感染してしまう危険性がある。そうなれば共倒れだ。
大切な人が苦しんでいるのに、その看病すらできない。その歯痒さに、私は思わず拳を握り締めた。
感染症が世界中で猛威を振るっている今、病院のベッドが足りなくなっているらしかった。おかげで、彼は病院で治療を受けることもできない。
日に日にニュースは増加していく感染症の被害者の数を数えている。今はどこのチャンネルもその話題で持ちきりだった。
数なんて数えていないで、助ける方法を教えてよ! そう叫んでもニュースキャスターは何も知りたいことを言ってくれない。
お金の問題はもちろん深刻だ。彼が感染した今、同じ家に住む私にも出勤を控えて自宅にいるよう言われた。収入がないのは、先が見えない不安がある。
しかし、今はそれ以上に、彼を助ける方法が知りたい。毎日のように隣の部屋からは苦しそうな咳が聞こえた。
病院にも行けない。看病もできない。それじゃあ、彼はどうやって治ればいいというのだろう。眠ろうにも息苦しいのか、彼の咳は夜通し聞こえている。
ニュースでは、感染した人たちが亡くなったという話も多く聞くようになった。誰もが知る有名タレントが亡くなったのは、記憶に新しい。
亡くなった人の報道で、彼の名前が出てくる。それを見て私は、静かになった部屋の外で愕然とする。そんな生々しい夢を見たことすらある。
私たちは若いから大丈夫。流行り始めの頃はそんな、傲慢とも呼べる気楽さがあった。
あの頃の私はなんてバカだったのだろう。自粛するべきだという彼を無理やり外に連れ出したのは、私だった。
まさか、こんなことになるなんて。彼の苦しんでいる息遣いが聞こえる。咳を吐き出す彼の声を聞いて、胸が引き裂かれそうな思いになると同時に、どこかで安堵していた。
咳が聞こえている間なら、彼はたしかに生きている。彼の苦しみが癒えることを願いながらも、悪夢に見る静寂が訪れることが、今の私には何よりも怖ろしかった。
誰も逃れられない
かつて、世の中がこんなことになる前、上橋菜穂子先生の『鹿の王』という作品を読んだことを思い出す。
当時、本屋大賞を受賞した作品として気になっていたから買ってみたのだ。上橋菜穂子先生のファンタジーは知っていたし、おもしろいだろうという確信を持っていた。
しかし、内容には正直、驚かされた。『狐笛のかなた』や『守り人』シリーズのような上橋先生の過去作とは、まったく違う毛色の作品だったからだ。
かつてのように信仰や呪いの存在が信じられていた時代を舞台として、二人の男を中心に、物語は描かれる。
世界観はファンタジーではあるけれど、そこに描かれるのは、異教とされる現代に近い医療で病の原因と戦うというものだった。
黒狼熱という感染症に苦しむ患者の姿が、今まさに隣の部屋で苦しんでいる彼の姿と重なった。
作中では犬に噛まれることで発症するその感染症を、特定の地域の民族にしか現れない。
しかし、実際の感染症は、人間側の都合なんて何も考えてはくれないのだ。地位も、仕事も、性別も、何も関係はない。
学生の頃に見たペストが流行したヨーロッパで描かれた絵画を思い出す。王冠を被った人、ドレスを纏った貴婦人、鎧を着た騎士、その誰も彼もが等しく骸骨となっていた。
若者も、老人も、男も、女も、王も、貴族も、貧民も、騎士も、病は誰も区別してくれない。善人も悪人も病の前に倒れていく。
その恐怖に思わず震えた。感染症というものの恐ろしさが、そこにはありありと描かれていた。
テレビでは、平気で外に出る人たちの姿が映されている。彼らは傲慢なのだろう。自分は病気にはかからないし、かかっても大したことにはならないと信じ切っているのだ。
なぜあんな平気そうな顔で外に出れるのだろう。なぜ危機感を持っているにもかかわらず仕事に行っているのだろう。
かつて、私自身もしていたことに対して、呆れと恐怖の入り混じる疑問が私の中に渦巻いていた。
彼の咳が聞こえる。それはさっきまでよりも、さらに苦しそうだった。お願いです、彼を助けてください。人は本当に助けてほしいとき、信じていなくとも祈るのだと、その時初めて知った。
病に立ち向かう本格ファンタジー
また、木漏れ日の中にいる夢を見た。目を上げれば、遠く、雪を纏った山脈が見える。なぜだろう。そんな夢を、汚泥にまみれた地の底で、毎夜、繰り返し見る。
圧倒的な東乎瑠の兵力に押しつぶされたカシュナ河畔の戦の一部始終は、不思議なことに、まるで夢に見なかった。
屍が累々と横たわる戦場に、ひとり立ち尽くしていた自分の上に降ってきた網野、油じみた埃臭い匂いも、アカファ岩塩鉱に連れてこられるまでの諸々も、夢に見ることはない。
どこかで叫び声がして、ヴァンは、びくっと目を覚ました。聞こえてきたのは、この層に繋がれている者たちの声ではなかった。切迫した声だ。空ろに谺しながら、いくつも重なって響いている。
松明の明かりに、入り口に近いところにいる男が叫びながら身を捩る影が映った。そのとき、何かの影が黒い水のようにするっと入ってくるのが見えた。
揺れる松明の明かりに、毛並みが光ったように見えたが、あまりにも暗く、姿をしっかりと捉えることはできなかった。狼に似ているが、狼より小さい。
故郷の山に多くいた、恐ろしく剽悍で残酷な山犬。入り口にいた男とその影が交じり合い、何かを引き裂いたような絶叫があがった。
獣が隣の男に飛びかかった瞬間、ヴァンは、繋がれていない左足で、その獣の横腹を思いっきり蹴った。
ヴァンはつかのま、その獣と正面から見つめ合った。闇の中でも異様に光って見える金色の目が、何か考えているようにこちらを見つめている。次の瞬間、目の前に、黒い塊がいっぱいに広がった。
咄嗟に喉を守った腕に、牙が食い込んだ。固いものに挟まれたような圧迫感がきて、すぐに牙が皮膚を食い破った激痛が腕に走った。
価格:704円 |
関連
人の温かさを求める狐と優しい娘の和風ファンタジー『狐笛のかなた』上橋菜穂子
ひとりでひっそりと暮らしている小夜は、ある時、大郎という男から自分の母親について聞かされる。彼女の母親は優れた呪者だった。そして、敵国の呪者が小夜の身を狙っているという。
愛する人を守りたい貴方様におすすめの作品でございます。
価格:781円 |
24時間365日という看板を掲げる本性病院で働く栗原一止に、大学病院から誘いが届く。最新医療を学べる大学病院に行くべきか、それとも留まるべきか。一止は深く思い悩む。
人を救いたい貴方様におすすめの作品でございます。
価格:607円 |