夜の街を巡るハードボイルド・ミステリ『探偵はバーにいる』東直己


 カウンター席には俺ひとり。店内に流れるジャズに耳を傾けながら、『探偵はバーにいる』を読んで、グラスを傾ける。それが俺の至福の瞬間だ。

 

 

 ススキノ探偵シリーズは第二作目から映画化されて人気になった。だが、俺が好きなのはシリーズの一作目である。

 

 

 映画では大泉洋と松田龍平がコンビを組んでいたが、シリーズの一作目は相方がおらず、探偵ひとりだけだ。

 

 

 俺はこの探偵に憧れていた。女にわかりやすく優しくするのではない。口下手だが、言葉にしない優しさに、「なんてかっこいいんだ!」と学生時代の俺は感銘を受けたのだ。

 

 

 以来、俺はダンディなコートを着て、カウンター席に座る日々である。とはいえ下戸なので、グラスに入っているのはミルクだが。

 

 

 『探偵はバーにいる』はハードボイルドな渋みがある。それがまた、魅力的で堪らないのだ。

 

 

 そもそも、俺はミステリというものが心底気に入らなかった。特に、シャーロック・ホームズなんてのはどうにも好かない。

 

 

 探偵に観察眼は必要だ。だが、事件の過程をすっ飛ばして瞬く間に事件を終わらすのは過剰だと感じる。

 

 

 まるでホームズを超人とするべく生まれた作品だ。幼稚で、現実味がない。それは俺の求めているところではないのだ。

 

 

 だが、俺がもっとも嫌いなのは安楽椅子探偵だ。奴らときたら、脚も動かさず、ただ話を聞いただけで事件を解決する。

 

 

 なるほど、たしかに優秀で天才的な探偵といった雰囲気はするだろう。だが、それは本来の探偵の姿ではない。俺は彼らが平然と探偵を名乗ることが気に入らなかった。

 

 

 そもそも、探偵とは何か。

 

 

 シャーロック・ホームズしかり、古典文学のしわざによって、探偵は「事件の謎を解き、真実を明らかにする」存在となった。

 

 

 ミステリにおいて、事件を解決する役割のことを「探偵」と呼ぶ。それはミステリ小説が古くから作り上げてきたイメージのせいだろう。

 

 

 だが、探偵の仕事は本来、浮気調査や猫探しといった地味な仕事だ。どちらかというと便利屋に近いだろう。

 

 

 『探偵はバーにいる』にここまで俺が心惹かれたのは、彼こそが本来のあるべき探偵の姿だったからに他ならない。

 

 

 事件現場に土足で踏み入り、推理とやらを声高に主張して、お前が犯人だと叫ぶ。そんなものは探偵ではない。

 

 

 人脈を駆使し、自分の足であちこちを駆けまわり、事件の解決に奔走する。探偵とは、かくも泥臭く、地道で、頭ではなく足を使うものなのだ、と。

 

 

 推理のおもしろさはたしかにない。探偵はあちこちの店を渡り歩き、飲み、食い、知り合いの話を聞く。

 

 

 時には加減を過ぎて意識を失い、記憶を飛ばすことすらある。荒事に巻き込まれ、痛い目を見ることもある。

 

 

 浪漫はない。天才ではない。優れた頭脳を持たない。足も速くない。彼にあるのは腕っぷしの強さと、豊富な人脈だけだ。

 

 

 だが、そんな彼だからこそ、誰よりもかっこよく、魅力的なのだ。ホームズのような『英雄』とは違う、彼が紛れもなく、普通の『人間』であるのだと感じさせてくれるから。

 

 

女はどこへ消えたのか

 

 冷たい突風が真正面から吹き付ける。俺は思わず顔をしかめた。客引きたちが、片手にビラの束を持ち、悲鳴に近い声を出す。俺は背を向けて階段を下りる。

 

 

 客はひとりしかいなかった。細長い店の壁沿いに延びたカウンターの真ん中にぽつんと座っている。

 

 

「いらっしゃいませ」

 

 

 俺の姿に気付いた岡本が営業中の口調で言って会釈し、いやらしくニヤリと笑う。俺の前におしぼり、ピースの缶、胃腸薬のオオバコ、水を注いだタンブラァを置く。

 

 

 俺は箱から胃腸薬を二袋出し、口を切った。その時、ひとりぽつんと座っていた男がぼんやりとした声を出した。

 

 

「あのう……」

 

 

 そいつはいきなり俺の苗字に「先輩」という不気味な言葉をくっつけて口走った。

 

 

 あらためて眺めると、まだ子供だった。ニ十歳を越えたばかりと言った感じだ。なぜ俺の名前を知っているのか尋ねてみようと思ったが、やめた。一目瞭然だ。

 

 

「あの、僕はハラダといいます。先輩の、六年後輩になります。実は、あのう、三村さんから聞いたんです。先輩が、ススキノで、何か探偵みたいなことをしてるって……」

 

 

 俺はだんだん厭ぁな気分になってきた。「そうか、ま、頑張れよ。じゃ用事があるんで」と言って、立ち上がればいいワケだ。

 

 

「それで、三村さんからそう聞いてたもんですから、ちょっとその、ご相談したいって言うか、友人が行方不明なんです」

 

 

「……そう。友達が行方不明。なるほど」

 

 

 要するに、同棲している女がしばらく外泊していて帰ってこない、ということなのだろう。だから何なんだよ。

 

 

「もし話を聞くとなると、いろいろ細かいことまで聞かなきゃならないよ。それでもいいのかい?」

 

 

「他に、どうすればいいか全然わからないんです。もう四日なんです。お願いします。あの、お金なら、あの、少しは……」

 

 

 俺は、思わず笑っちまった。

 

 

「わかったよ。まァ話すだけなら、タダだ。少しは気も晴れるだろ」

 

 

「ありがとうございます!」

 

 

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