傑作と呼ばれる切ない本格ミステリ『容疑者Xの献身』東野圭吾


 自分が愛おしいと思う相手のために、自分自身の一生を犠牲にしても尽くすことが果たしてできるか。

 

 

 私はできないと言った。そして、彼はできると言った。それこそが、彼と私の間を決定的に分けたのだ。いつしか私たちの間は交わらず、平行線を行くようになった。

 

 

「なあ、君、聞いてくれ。僕にも好きな人ができたんだ。優しくて、とてもきれいな人だ」

 

 

「まさか、あれほど恋愛に興味がなかったお前の口からそんな言葉を聞ける日が来るとは思わなかったよ」

 

 

 彼はとても幸せそうな表情をしていた。陶然とした、どこか夢見るような表情。かつてはずっと仏頂面をしていたこの男がそんな表情を浮かべるとは、私は知らなかった。

 

 

「君にもいずれわかる時が来るだろうさ。人に恋すると、世界が変わる。モノクロだった世界が色づくんだよ」

 

 

「わかりたくないね。そんなところに入らなければならなくなるような感情なんて」

 

 

 私が皮肉を込めて言ったけれど、彼はにこにこと笑うばかりだった。その目は満足感に満ちていた。

 

 

 彼との間を隔てた面会室の透明な壁が、私と彼の違いを知らしめているかのようだった。すでにもう、彼は私の知る理性的な男ではない。

 

 

「いつか、ほら、君が貸してくれた本があっただろう」

 

 

「どの本のことだ。何冊かあったが」

 

 

「『容疑者Xの献身』だ。いざ事を起こすとき、あの本のことを思い出したよ。あの頃はわからなかったが、今ようやく、僕は石神の気持ちがわかった」

 

 

 好きな人のためなら、なんでもできるという気持ち。自分の人生すらも、犠牲にできるほどの愛。

 

 

 『容疑者Xの献身』は東野圭吾先生のガリレオシリーズに類する作品のひとつだ。

 

 

 ガリレオこと湯川学が絶賛するほどの才能を持った天才数学者、石神は、マンションの隣りの部屋に住む花岡靖子のことが気になっていた。

 

 

 ある時、靖子のもとに、別れた彼女の元夫が現れる。彼は彼女につきまとい、娘のことも引き合いに出して脅迫し、よりを戻そうとしていた。

 

 

 家にまで乗り込んできた彼が娘の美里に手を上げたため、彼女を守ろうとした靖子は、咄嗟に彼の首を絞めて命を奪ってしまう。

 

 

 そのことを知った石神は、彼女たち親子を救うため、一計を案じた。ひとりの天才が愛する人のために、身を投じていく。

 

 

「僕はあの作品、好きなんだ。結末には、感動したよ。思わず涙が溢れた」

 

 

 石神の行動に感動したという彼は、愛する人を助けたという。しかし、そのために彼は、してはいけないことをしてしまった。

 

 

 彼はきっと、物語の石神と自分を重ねてしまったのだろう。私が貸した物語に共感を覚えてしまったばかりに。

 

 

「君はただの犯罪者だよ。石神と同じように」

 

 

 『容疑者Xの献身』は切ない恋愛を描いたミステリだと言われている。彼のように、結末に感動する人も多い。

 

 

 だが、私の考えは違った。

 

 

「どんな理由があったとしても、罪を犯していい理由にはならないよ」

 

 

 むしろ、人のため、というその美徳とされている「献身」そのものが、私には甚だ疑問だった。

 

 

 それは私が愛を知らないからかもしれない。向こう側にいる彼とは違い、私がこちら側の人間だからかもしれない。

 

 

 だが、私には、どうしても、「人のため」というのは、責任を人に転嫁するための言い訳としか聞こえないのだ。

 

 

 『容疑者Xの献身』は私も好きな作品だ。だからこそ、彼に貸した。だが、彼がしたことは、石神がしたことは。

 

 

「それは、愛する人を言い訳に使う、最悪の行いなんじゃないだろうか」

 

 

 そう言った私の顔を見つめる、彼の表情はもう、すでに笑みを浮かべてはいなかった。

 

 

天才数学者の愛

 

 午前七時三十五分、石神はいつものようにアパートを出た。三月に入ったとはいえ、まだ風はかなり冷たい。

 

 

 石神の職場へ行くには、まっすぐ南下するのが最短だ。清澄庭園という公園に突き当たる。その手前にある私立高校が彼の職場だった。つまり彼は教師だった。数学を教えている。

 

 

 石神は目の前の信号が赤になるのを見て、右に曲がった。新大橋に向かって歩いた。向かい風が彼のコートをはためかせた。

 

 

 橋を渡ると、彼は袂にある階段を下りていった。橋の下をくぐり、隅田川に沿って歩き始めた。

 

 

 清洲橋の手前で、石神は階段を上がった。高校へ行くには、ここで橋を渡らねばならない。しかし彼は反対方向に歩き出した。

 

 

 道路に面して、『べんてん亭』という看板が出ている。小さな弁当屋だった。石神はガラス戸を開けた。

 

 

「いらっしゃいませ。おはようございます」

 

 

 カウンターの向こうから、石神の聞き慣れた声が飛んできた。白い帽子をかぶった花岡靖子が笑っていた。

 

 

「ええと、おまかせ弁当を……」

 

 

「はい、おまかせひとつ。いつもありがとうございます」

 

 

 弁当を手に、石神は店を出た。そして今度こそ清洲橋に向かった。彼が遠回りをする理由、それは『べんてん亭』にあった。

 

 

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