洋服ダンスの扉を開けるたび、中をのぞいてしまう。ハンガーにかけられている服を押しのけて、その向こう側に手を伸ばす。奥の板が指先に触れるたび、わかっていながらも、ついがっかりしてしまうのだ。
子どもの頃、私はその魅力的な物語を目にした。C.S.ルイス先生の『ナルニア国物語』。幼い私は、瞬く間に四人の子どもたちの冒険に魅了された。
ピーター、スーザン、エドマンド、ルーシィの四人は疎開先の家を探検していた。その最中、ルーシィは、洋服ダンスの奥に広がっている別世界『ナルニア』に迷い込んでしまう。
ナルニアは邪悪な魔女に支配されており、冬がずっと続いていた。魔女に逆らう者は石にされてしまうという。魔女は人間を探していた。
彼女は半人半獣のタムナスに助けられて元の世界に戻り、今度は四人兄弟全員でナルニアを訪れることになる。ルーシィの先導で彼らは自分を助けてくれたタムナスに会いに行った。
けれど、部屋は荒らされていて、もぬけの殻だった。出会ったビーバーによると、タムナスは魔女に呼び出されてしまったという。今頃は、石にされてしまっているだろう、とのことだ。
彼らはタムナスを助けるため、帰還するというナルニアの王、アスランと会うことを決める。けれど、そんな中、エドマンドだけが姿を消していた。
ナルニアは魔法が力を持ち、半人半獣や妖精が生きていて、動物や植物が言葉を話す世界。魔女もいるし、サンタクロースもいる。ファンタジーのいろんなものをごちゃ混ぜにしたような感じ。
成長していくにつれて、私は『指輪物語』を読んで、『ハリー・ポッター』を読んで、いろんな異世界ものの作品を読んできた。中つ国にも行ったし、ホグワーツにも入学した。いくつもの異世界を見て回った。
でも、それでも私の根底にあるのは、やっぱりナルニアなのだ。子どもの私の心を捉えたその世界が、今もまだ、私の中にある。
私にとっての魔法の入り口は、9と4分の3番線ではなく、洋服ダンスの奥にあった。その瞬間、私はいつだって子どもの頃の私に戻って、ドキドキしながら洋服ダンスの扉をくぐっている。
服を押し分けた先に広がっている白銀の雪景色。森の中に突っ立っている街灯。板張りの裏側を指で触れながら、私の心は、妄想の世界を冒険し始めていた。
大人はみんな、否定するだろう。ただの子どもの空想だと、笑い飛ばすのだろう。でも、本当にそうだろうか。どうして私たちの知っていることしか、世界にないと思えるのか。あるいは、子どもたちは私たちの知らない世界を冒険しているかもしれないのに。
常識を学び、魔法がこの世にないのだと知り、空想よりも現実に生きるようになって、子どもから大人になった私は、もう、自分の妄想を信じることができなくなってしまった。
でも、『ライオンと魔女』を読み返した時、私は今も、洋服ダンスを開けて奥を見てしまうのだ。そこには古ぼけた板があるだけなのだと、わかっていたとしても。それこそが、私がこの本にかけられた魔法なのだろう。
今日も、私は洋服ダンスを開ける。服を押しのけて、その先を見た。思わず目を見開く。私は深く呼吸をして、身をかがめると、その扉をくぐっていった。足の下に、雪の柔らかい感触が伝わった。
その国の名はナルニア
むかし、ピーター、スーザン、エドマンド、ルーシィという四人の子どもたちが、いました。この物語は、その四人兄弟が、この前の戦争の時、空襲を避けてロンドンから疎開した時に起こったことなのです。
兄弟は、堅い中に住むある年寄りの学者先生のお屋敷に送られたのですが、先生は、奥さんがいないで、マクレディさんという家政婦と三人の女中さんといっしょに、たいそう大きな屋敷に住んでいました。
「家のなかを探検するんだ」
これには、みんな、賛成でした。そしてこれが、あの冒険の始まりになりました。この屋敷は、どんなに探検してもきりのないような家で、思いがけない場所がいっぱいありました。
四人は、がらんとした部屋をのぞきました。大きな衣装ダンスがひとつあるきりです。部屋中が空っぽで、窓の台に、アオバエの死骸があるだけでした。
「ここには、何もなし!」とピーターが言って、みんなは、どやどや、部屋を出ていきました。が、ルーシィだけが残りました。
そのタンスに鍵がかかっていることはまず確かだとは思いますが、ドアを開けてみるくらいは、やってみる値打ちがあると思って、ひとりだけ踏みとどまったのです。ところが驚いたことに、ドアはいとも簡単に、開くではありませんか。
中をのぞくと、外套がいくつも、吊り下がっています。ルーシィはすぐに、もう少し中に踏み込みました。きっと指先が、後ろの板じきりに触る、と思ったのですが……触りませんでした。
「すごく大きなタンスなんだわ、きっと」とルーシィは思って、もっと奥へ身体を推し入れるために、外套の柔らかな塊をかき分けていきました。すると、何か足の裏にざくざく踏みつけるものがあることに、気が付きました。
「あら、おかしいわね」とひとりごとを言って、また一、二歩先に進みました。その途端に、顔と手に触ったものは、もう柔らかい毛皮ではなくて、ごつごつして、ちくちく刺すことに気が付きました。「おや、木の枝の先みたいだわ!」ルーシィは声をあげて言いました。
冷たい、ふわふわしたものが、落ちてきました。気が付くと、なんと、真夜中の森の中に突っ立っていて、足元には雪が積もり、空から雪が降っていたのです。
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