20世紀でもっとも有名な子ども向けファンタジー『ホビットの冒険』J.R.R.トールキン


 前後に揺れるロッキングチェアに腰かけた老人は、穏やかな寝息を立てて眠り込んでいる。彼のかけられたひざ掛けの上には、一冊の本が置かれていた。

 

 

 『ホビットの冒険』。その本の装丁には、大きくそう書かれている。老人の節くれだった指が、その表紙をそうっと撫ぜた。

 

 

 それは、ほんの数刻前のことである。老人は知らぬ間に埃にまみれていた書斎を片づけていた。

 

 

「おや、これは。懐かしいのぅ」

 

 

 思わず独り言をつぶやくのは彼の癖であった。息子や、一時同じ家に暮らしていた娘夫婦とその孫がいたのは、随分と昔のことである。

 

 

 見つけたのは、J.R.R.トールキンの『指輪物語』だった。思わず彼の口から笑みが零れたのは、その物語を孫たちに読み聞かせた頃の思い出に浸っていたからである。

 

 

 サウロンの指輪を巡る物語は老人が生まれるよりもはるか昔のことだ。老人の先祖も戦いに参加したのだという噂もあるが、今や真実を解き明かす術はない。

 

 

 とはいえ、いつまでも感傷に耽っている場合ではない。思い出深い本に掃除の手が止まるのは掃除の魅力ではあったが、掃除を終わらせないための手段でもある。

 

 

 そうはいかんと老人は手に取った本をしまい込もうとして、ふと、本棚の『指輪物語』の奥に、もう一冊の本を見つけた。

 

 

 『ホビットの冒険』。老人は思わず手に取ってみる。随分と長く放っておかれたのか埃かぶっているが、読めないほどではない。

 

 

 これもまた、トールキンの作品のようだった。老人の好奇心が疼く。彼は『指輪物語』の熱心な愛読者であったが、その物語の存在は知らなかったのだ。いつしか、彼の脳裏には掃除の文字はなくなっていた。

 

 

 お気に入りのロッキングチェアに座り込み、娘がプレゼントしてくれたひざ掛けをかけて、本を開く。

 

 

 物語は、ビルボ・バギンズというホビットのもとを、魔法使いガンダルフが訪ねたところから始まった。

 

 

 老人は目を輝かせる。ビルボ・バギンズといえば、『指輪物語』の主人公の父親の名だったはずだ。そして、ガンダルフは『指輪物語』でも知らぬ者はいない。

 

 

 つまり、『ホビットの冒険』は『指輪物語』の前日譚であるらしい。老人は夢中になって読み進める。

 

 

 『指輪物語』はともすれば緊迫感に満ちた冒険の物語であり、物語の至るところに冥王サウロンの暗い影がつきまとっていた。

 

 

 しかし、『ホビットの冒険』のなんと明るいことか。戦いであるのにユーモアがあり、まるで文字から音楽が響いてくるかのようだ。

 

 

 その音楽に導かれ、いつしか老人は、ロッキングチェアのゆりかごに抱かれたまま夢の世界へと旅立っていった。

 

 

 彼の口元がかすかに微笑んでいるのは、かつての懐かしい、まだ孫たちがいた頃の楽しい光景を夢に見ているからである。

 

 

 老人が優しい口調で読み上げる『ホビットの冒険』を、孫たちは時に笑い、時に歓声を上げ、時に拳を握り締めて熱心に聞いていた。

 

 

 その様子を、老人の娘が穏やかな瞳で見つめている。そんな、幸せな頃の夢。ひとりきりの広い家に陽光が差し込んでいる気がした。

 

 

 そろそろ窓の外でツグミが鳴く時間だけれど、幸せそうな寝顔だから、もう少し寝かしてあげましょうね。

 

 

胸躍る冒険の始まり

 

 地面の穴の中に、ひとりのホビットが住んでいました。このホビットは、たいへん暮らしむきの良い家柄で、バギンズという姓でした。

 

 

 バギンズ家は、代々、もう思い出せないくらい昔から、ずっとお山の近くに住んでいました。そして世間では、バギンズ家は立派な家柄で通っています。

 

 

 それは、代々豊かだったせいばかりでなく、昔からとんでもない冒険や呆れるような事件を引き起こしたものがなかったからでした。

 

 

 ところが、この物語では、そういうバギンズ家のひとりが、途方もない冒険をやり、当人でさえあっと思うようなことを言ったりしでかしたりするのです。

 

 

 ある朝、ビルボ・バギンズが、朝ご飯を済ませて、ゆっくりしていると、あのガンダルフがやってきたのです。

 

 

 ガンダルフが顔を出すところには、どこにも決まって、不思議な物語、ものすごい冒険が巻き起こるのです。

 

 

 この朝、それと知らないビルボが見た人は、ただの年寄りでした。「よいお日和を」とビルボが言いました。ガンダルフは眉毛の下から、ビルボをじっと見つめました。

 

 

「それはどういうことかね」

 

 

「ゆっくりするには、とてもいい日和じゃありませんか」

 

 

「そうはいられない。わしが手はずを整えている冒険に、乗り出してくれる仲間を探しているところだが、その人を見つけ出すのが大変なんじゃ」

 

 

 ビルボは、年寄りのことなんて忘れたようなふりをして郵便を読み始めました。こんな者に構っていられない、早くどこかへ行ってもらおうというつもりだったのです。ところがその年寄りは動きません。

 

 

「わしを追っ払おうというんじゃな?」

 

 

「いえいえ、そんなことはありません。だいたい、あなたのお名前も知らないんですから」

 

 

「いやいや、知らんことはない。わしは、ガンダルフじゃ。いやはや、ベラドンナ・トックの倅にまであしらわれるくらい、わしも老いぼれたのか」

 

 

「ガンダルフ! ガンダルフですって! これはしたり。ところ定めぬ魔法使いではありませんか。お許しください」

 

 

「わしは、とにかく、この冒険にお前を連れ出そうと思ってるんじゃ。これは、わしにはすこぶる愉快だし、お前さんには大変ためになる。おまけに、大儲けができるぞ」

 

 

「残念ですが、私は冒険なんか、したくありません」

 

 

 こういうとホビットは、くるりと向きを変えて中へ入り、丸い緑のドアを閉めました。

 

 

 ガンダルフの方は、その間、ドアの外に立ったまま、長いことくすくす笑っていました。やがてガンダルフはドアに近寄って、杖の石突で、緑色のドアに、奇妙な印を刻みつけました。

 

 

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