尾を引く戦争の悲劇『黒い雨』井伏鱒二


幼い頃、私はアニメの『はだしのゲン』が怖くてたまらなかった。原爆を受けたヒロシマの崩壊した町並み、見るに堪えない姿に変貌した人々、彼らのあげる苦悶に満ちた声。

 

一度見て以来、私は二度とその作品を見なかった。けれど、その光景は脳裏にまで焼き付いている。当時の私にとってそれほどまでにその作品は衝撃だったのだ。

 

一九四五年八月六日、ヒロシマに原爆が投下され、多くの人の命を奪った。空にはキノコ雲が高く聳え立ち、崩壊した街には黒い雨が降ったという。

 

すでに終戦から七十年以上の時が過ぎた。当時を知る人はいよいよ少なくなり、戦争は歴史の教科書の一ページに過ぎない過去になろうとしている。

 

二〇二一年、私が今になって再び「戦争」について触れようと試みたのは、広島に住むことになったのがきっかけだった。

 

彼らにとっては今もなお、八月六日は特別な日なのだ、と。そのことを実感したのである。私は「戦争」を知ろうと思った。かつては恐怖を覚えたその光景を、私自身も焼き付けるべきなのだと感じたのである。

 

私が手に取ったのは、井伏鱒二先生の『黒い雨』であった。被爆者である重松静馬の書いた「重松日記」をもとにした小説で、原爆の後の彼らの生活を知ることができる作品である。

 

重松は姪の矢須子のことで頭を悩ませていた。彼女が「被爆者である」と噂を立てられたせいで、結婚相手が見つからないのだ。

 

原爆投下の時、重松は頬にひどい火傷を負った。しかし、矢須子は爆心地から遠く離れたところにいたために被爆をしていないはずだった。彼はそのことを証明するために、日記を清書し始める。

 

ところが、次第に矢須子に被爆の症状が現れるようになった。症状は悪化の一途を辿り、婚約は再び破談となってしまう。彼女はヒロシマに向かう道中、黒い雨に当たっていたのだ。

 

物語は現在の時系列に加え、重松の日記や矢須子の日記を交えつつ進められていく。現在の彼らの描写と比べ、日記の記述はさながら報告書のように淡々としている。

 

しかしそれでも、被爆した人々の凄惨な状況は思わず胸に迫るものがあった。文字だからこそ、その描写はむしろありありと生々しく頭の中に描かれていく。

 

それでも、その悲劇はまだ一端でしかない。被爆した彼らは、その後も被爆の後遺症に苦しめられていくのだ。それはただ身体の異常だけでなく、矢須子のように婚姻にまで影響を及ぼす。熱線を免れた彼らの人生そのものを、原爆は破壊し尽くしたのだ。

 

黒い雨は、原爆で巻き上げられた塵や埃が、雨に含まれて落ちてくるのだという。この雨は粘ついていて、放射能を含んでいる。そのため、より多くの人が被爆する結果になってしまった。

 

作中では、たびたびキノコ雲の描写が記されている。空高くそびえる奇怪な形の雲。それこそが原爆の残り香であり、黒い雨を降らせた元凶というわけだ。そう思えば、その姿はさながら怪物のようにおぞましく映る。

 

戦争は悲惨なもの。私たちは誰もがそう聞かされる。だが、戦争を実際に体験したことのない私たちは、そのことに実感を持つことができない。あくまでも、「そう聞かされた」以上のものはないのだ。

 

『黒い雨』や『はだしのゲン』のような作品に触れても、それは不十分だろう。そんなことくらい、わかっている。だけど、当時の苦しみを理解しようとすることくらいは、私たちでもできる。

 

『はだしのゲン』の中で、ひとつ、忘れられない言葉がある。余命がすでに幾ばくもない母親を背負ったゲンが、「軽くなったなぁ」と涙を流すのだ。

 

被爆した人たちは、火葬すると骨も残らないのだという。私たちが今まさに享受している平和は、彼らの苦悶の上に立っている。そのことを忘れてはならない。これからの歴史に、同じ悲劇を起こさないためにも。

 

 

ヒロシマを覆う黒い雨

 

この数年来、小畠村の閑間重松は姪の矢須子のことで心に負担を感じてきた。数年来でなくて、今度とも言い知れぬ負担を感じなければならないような気持であった。

 

理由は、矢須子の縁が遠いという簡単なような事情だが、戦争末期、矢須子は女子徴用で第二中学奉仕隊の炊事部に勤務していたという噂を立てられて、小畠村の人たちは、矢須子が原爆病患者だと言っている。

 

だから縁遠い。近所へ縁談の聞き合わせに来る人も、この噂を聞いては一も二もなく逃げ腰になって話を切り上げてしまう。

 

けれども矢須子が広島の第二中学校の奉仕隊の炊事部に勤務していたというのは事実無根である。矢須子は日本繊維株式会社古市工場に勤務して、富士田工場長の伝達係と受付係に任ぜられていた。日本繊維株式会社と第二中学とは何のつながりもないのである。

 

初めのうち重松は、いったい誰がそんな流言を放ったのだろうと、その元凶を探り出してやろうと思っていた。しかし小畠村の人で原爆の落ちる時広島にいた者は、重松と家内と矢須子の他には、報国挺身隊に所属する青年と奉仕隊員だけであった。

 

重松は巡回診断の医師からも、はっきり原爆病だと診断された。しかし矢須子は決して病気ではない。然るべき医師の健康診断を受け、ことごとく異常なしと診断された。

 

「今度は大丈夫だ。この頃の人は、結婚する前に健康診断書を取り交わす傾向だからな。先方でも、妙なことだとは思わんだろう」

 

重松は家内にそう言って半ば自負していたが、この念入りなやり方は気が利いていて間が抜けるといったような結果を招いた。

 

仲人は矢須子の健康について、小畠村のどこかの家へ聞き合わせに来たと見え、原爆投下の日から小畠村に帰るまでの広島における矢須子の足取りを知りたいと手紙で言ってきた。重松は重ねてまた自分が負い目を感じることになったと気が付いた。

 

「よろしい、今度という今度は、わしが悪かった。だが、人の噂だけで業病扱いするとは何事か。いや、我々は再起をはかるんだ、突破口を見つけるんだ」

 

矢須子はそろそろと立って、箪笥の抽斗から取り出した当用日誌を無言のまま重松に手渡した。昭和二十年度の矢須子の日記である。重松は、矢須子のこの日記を筆耕して仲人に送る必要があった。

 

 

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