「次は、夢の木坂、夢の木坂です」電車のアナウンスが聞こえる。そんな駅、あったっけ。自分の手を見れば、皴がなくなってつるつるとした饅頭みたいな丸い小さな手になっている。ああ、そうか。これは夢なのだ。そう思った途端、電車が停車してドアが開いた。
改札口をくぐる。駅には大勢の人がいたが、顔はなかった。想像するのが面倒だからだろう。こんな変な夢を見るのは、寝る直前に『夢の木坂分岐点』なる奇怪な小説を読んでいたからに違いない。
その小説の著者は筒井康隆先生である。彼の作品はいくつか読んだことはあるが、『夢の木坂分岐点』はその中でもひときわ異質な代物だった。その内容を要約するのは私の技量では難しいが、まあ、やってみよう。
まず、ひとりの男がいる。彼は小畑重則であったり、大村常昭であったり、大畑重昭であったりして、名前が安定しない。だから、ひとまず「おれ」としておこう。
「おれ」はサラリーマンである。と同時に、作家でもある。時にはサラリーマンを辞めて、専業作家になっていることもある。妻と娘がいるが、家庭の仲はよろしくない。時には別居している。娘が息子になっている時もある。
それらはすべて、「おれ」にあったかもしれない人生である。この作品はそれを重層的に描く。夢か、現実か、虚構か。その区別すら曖昧であるし、そもそもそんな区別をすること自体が無駄なのかもしれない。
ああ、くそ。あんな小説を読んだから、こんな夢を見るのだ。覚めてしまおうか。だが、それはそれで嫌だった。現実に戻るくらいなら、夢を彷徨い続ける方がよほどましだ。
「目が覚めれば現実だと、本当にそう思っているのかね」
老人が話しかけてくる。彼は私のお気に入りの服を着ていた。その顔を、私はどこかで見たことがあるような気がする。たとえば、そう、鏡なんかで。
「むしろ、こっちこそが現実で、君が現実だと思い込んでいるところこそが夢だとは思わないのかね」
「そんなはずは」
ない、とは言えなかった。そもそも、夢だとか現実だとか虚構だとか、そんなものは簡単にひっくり返るくらい、曖昧なものなのだと、気付いてしまった。
「じゃあ、どうすればいい」
「ふむ」
「ここが夢ではなく現実だとして、目が覚めた後のあちらの世界が夢だとするのなら、私はどうすればいい」
私が茫然として呟くと、老人はなぜか、呆れたような表情をしてみせた。そして、さも当然のことのように言ったのである。
「そんなの、何も変わらんさ。君は夢だったら手を抜くのかね。虚構だったら手を抜くのかね」
たとえどこが現実で、どこが夢であっても、その時その時を全力で生きていけばよい。ただそれだけのことではないか。
「……そっか」
どこかでアラームが鳴っている。スマートフォンの、設定していたアラームだ。耳元でけたたましい音を響かせている。世界全体が、ぐにゃりと歪んだ。
ああ、時間だ。私が目覚めようとしている。この世界はその度に崩壊しているのだ。老人も、私自身も、みんな消える。
「また今夜会おう」
彼は鷹揚にそう言った。けれど、その声をどこで聞いたのだか、私にはもう、思い出すこともできなかった。
夢と現実と虚構の狭間
ひとりのやくざが歩いている。股旅物の映画などに出てくる折り目正しい仁義の人としてのやくざではない。所謂無頼漢と所謂やくざのあいのこ程度のやくざである。
周囲は江戸時代の町並み。夜だ。犬は吠えていない。いかにも聞こえてきそうな夜まわりの声もない。人通りは他にない。
やくざの行く手にあって、その町並みの中心をなしている大きな宿屋らしい構えの正面から、くぐり戸を開けてひとりの侍が通りへ出てきた。
これは若くていかにも侍らしい侍であり、怒りっぽく感じられる若侍的な若侍だ。やくざと出会うのだろうなと、この情景全体を少し離れたところから一定しない視点で見ている彼がそう思う。
またこの話か。いやだなあ。やくざは少し酔っているようだ。きっとあの侍臭い侍にからむんだろうな。いやだなあ喧嘩になるぞ。あれはいつももの悲しい気分になる喧嘩なのだ。彼はそう思い、またいつものように巻き添えを食わぬようにと願う。
だが、侍が抜刀した。激怒して赤眼を吊っている。ひえ、と叫んでやくざが彼の方へ逃げてきた。ほうら始まったぞ。見ろ。必ずおれの方へ逃げてくるんだ。
薄明かりの中をやくざと、抜刀した若侍が走ってくる。彼はあわてて逃げる。だが足がすくんでいる。足の裏が地べたに粘着する。大腿部の筋肉が弛緩している。
いやだ。またやくざと間違えられて背中を斬られたりするのはいやだ。目覚まし時計が鳴っている。ぬるま湯じみた音を立てる目覚まし時計。
斬られるのは厭だが、目を覚ますのはもっと厭だ。またしても現実が始まるぞというあの荒涼とした無力感。おれは疲れているんだ。ほんとに身も心もくたくたなのだぞ。なのに、なぜこんな夢を見る。
現実の方が少しはましとでも思わせたいのか。夢がそう思わせようとしているのか。もうちょっと眠りたいというのに。寝かせてくれ。
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