「どちらへ、行かれるんですか?」
目の前に腰かけた女性が私に問いかけた。シックな色合いのワンピースがよく似合っている。どこかぎこちない笑みが印象的だった。
「どちらへ、っていうのは、ないんですよ。とにかくどこか遠くへ行きたいなって、思いまして」
車窓からは田んぼの並ぶのどかな風景が後ろへと流れていく。見上げるほど高いビルディングに囲まれて育った私にとっては、どこか別世界に来たような感覚を覚えた。
「一人旅、ですか。いいですね。私も、そういう気分になる時があります」
目の前の彼女は儚げな笑みを浮かべて車窓の外へ視線を向けた。線の細い穏やかな横顔には、どこか物憂げな雰囲気をまとっている。
私と彼女は知り合いではない。まったくの初対面である。電車の席で、たまたま相席になったところに、彼女の方から話しかけてきた。
「あなたは、どちらへ?」
私が尋ねると、彼女はしかし、少し困った顔をして首を傾けた。長い髪の毛がひらりと彼女の目元を隠す。
しまった。いくらなんでも初対面の女性に行き先を聞くのは失礼だったか。私が軽い後悔を覚えていると、彼女はどこか茫然としたようにこんなことを呟いた。
「さあ……どちらへ、行きましょうね」
それは小悪魔のようにはぐらかしている、というよりは、本当に困惑している表情だった。
「あなたも一人旅ですか?」
私の問いに、彼女はまた微笑んで、首を横に振った。
「いいえ、いいえ、私はあなたのような旅人ではないのです」
私は、逃げたのです。逃げて、逃げて、とにかく逃げようとして、ここまで来ました。
私はどこに行こうとしたわけではないのです。私はただ、そこから離れようとして、ここにいるのです。
彼女は柔らかい笑みを浮かべていた。しかし、私の目には、それは自分の罪を告白する咎人のように見えたのだった。
旅路を共に
彼女はぽつぽつと自分の身の上を語った。初対面の自分が聞いてもいいのかと尋ねたら、だからいいんですと彼女は答えた。
彼女はバツイチであるらしい。かつて夫であった男性と離婚したのは一年前のことである。
原因は夫からのDVだったという。毎日振りかざされる拳に、彼女は精神も身体も憔悴しきっていた。
そんな彼女を心配した友人の力添えにより、彼女と夫は正式な手続きを踏まえて離婚した。
しかし、夫の方はまだ彼女への執着を捨てきれていなかったらしい。彼女の家に押しかけて、復縁を迫るようになった。
そのせいで、彼女は住所を転々とする羽目になったという。しかし、彼は予想以上にしつこく彼女にまとわりついた。
「世間は彼だけを悪者として扱います。でも、私は、彼だけが悪者ではないことを知っています」
彼は、かつて優しいひとでした。それがこんなふうになってしまったのは、私が彼を止められなかったからです。
「彼は私の罪を裁く執行人であり、また、私の罪そのものでもあります。でも、私は向き合うことを怖れて、逃げてきました」
向き合わなければ、何も変わらないことはわかっています。でも、私はその勇気もない逃亡者なのです。
話し終えた彼女は、どこか恥ずかしげに俯いている。その伏せた視線には、胸に溜まっていたものを吐き出した清々しさと話してしまったという後悔が混在していた。
私は何も声をかけることができなかった。彼女に慰めの言葉をかけるには、一介の旅人には荷が重すぎる。
「……ありがとうございます。聞いていただけて、すっきりしました」
しかし、彼女は柔らかい微笑みを浮かべた。さっきまでよりも、きれいな笑みだった。
「……いえ」
私はその笑みを直視できなかった。視線を車窓の外に流すと、山道のトンネルに差し掛かるところだった。
トンネルの暗闇の中に、私と彼女の顔が映る。彼女もまた、窓の外を眺めていた。
私と彼女は同じだ。私の旅もまた、逃亡だった。現実という怪物が恐ろしくて、私は逃げたのだ。
私は途端に自分が恥ずかしくなった。彼女は自分の十字架を包み隠さず語った。逃亡者である自分を受け入れたのだ。
私は旅人を装った咎人である。彼女の微笑みが聖母のように見えて、私は顔を赤くして俯くことしかできなかった。
旅路で出会った踊り子との恋
私は二十歳、高等学校の制帽を被り、紺飛白の着物に袴をはき、学生鞄を肩にかけて、一人伊豆の旅に出た。
修善寺温泉に一夜、湯ヶ島温泉に二夜、朴歯の高下駄で天城を登っていたのは四日目のことである。
大粒の雨に打たれながら急ぎ足で峠の北口の茶屋に辿り着くと、そこでは旅芸人の一行が休んでいた。
突っ立っている私を見た踊り子が自分の座布団を外して、裏返しに私のそばに置いた。私は礼を言ってその上に腰かける。
踊り子は十七くらいに見えた。連れは四十代の女が一人、若い女が二人、長岡温泉の宿屋の印半纏を着た二十五六の男がいた。
茶店の老婆が私を別の部屋へ案内してくれる。小一時間経つと、旅芸人たちが出立つらしい物音が聞こえてきた。私は胸騒ぎするばかりで立ち上がる勇気が出なかった。
次第に雨足が細くなって、峰が明かるんできた。きれいに腫れ上がると、しきりに引き留められたけれども、じっと座っていられなかった。
峠道の展望の裾の方に芸人たちの姿が見えた。私は彼らの一行に追いついたが、急に歩調を緩めることはできないので、冷淡な風を装って女たちを追い越した。
十間ほど先にひとり歩いてた男が私を見ると立ち止まった。次々といろんなことを聞いてくる男に答えていると、後ろから女たちが走り寄ってきた。
一行は大島の波浮の港の人たちだった。春に島を出て旅を続けているのだが、冬の用意はしていないので、下田に十日ほどいて伊東温泉から島へ帰るのだと言った。
私と男は絶えず話し続けて、すっかり親しくなった。私が下田まで一緒に旅をしたいと思い切って言うと、彼は大変喜んだ。
娘たちは一時に私を見たが、なんでもないという顔で黙って、少し恥ずかしそうに私を眺めていた。
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