6つの物語が織りなす小さな夜の曲『アイネクライネナハトムジーク』伊坂幸太郎


耳を澄ませてみれば、軽やかな音色が跳ねるように聞こえてくる。モーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』。その音楽に浸りながら、伊坂幸太郎の作品を読むのが、僕の過ごす幸せな日常だった。

 

その曲が聞こえてくるのは、隣に建っている小さな白い家らしい。誰が住んでいるのかはわからないが、僕はその家に特別な想いを抱いていた。

 

初めて聴いた時は、仕事で疲れ切って、未来に希望が見出せなかった頃だ。開け放った窓から聞こえてくる音楽に、心の鬱屈が流されていったように感じた。以来、隣の家からその曲が聞こえてくるのを、密かに楽しみにするようになった。

 

伊坂幸太郎の『アイネクライネナハトムジーク』が僕のお気に入りの作品となったのも、僕の心を癒したその曲と同じタイトルだったからかもしれない。その曲が聞こえてくる頃、僕が窓際に座って読むのはいつもその本だった。

 

『アイネクライネナハトムジーク』は六つの短編が収録された短編集である。「アイネクライネ」「ライトヘビー」「ドクメンタ」「ルックスライク」「メイクアップ」「ナハトムジーク」。

 

「アイネクライネ」はアンケート調査のために街頭に立つ青年の話。「ライトヘビー」は顔も知らない電話相手と約束を交わす女性の話。妻に逃げられた男が免許更新の時だけ会う女性と会話する「ドクメンタ」。

 

高校生の男女が違法駐輪の犯人捜しを試みる「ルックスライク」。化粧品会社で働く女性がかつてのいじめっ子と再会する「メイクアップ」。そして、物語のその後を描いた「ナハトムジーク」。

 

それぞれがまったく無関係な短編のように見えて、実は、根のつながったひとつの大きな物語になっている。幼い少女が別の短編で成長して登場したり、ボクシングのチャンピオンに励まされた少年が思わぬ再登場をしていたり。

 

別々の物語が絡み合っていくのが楽しくて、何度読み直しても飽きない。むしろ、読み直せば読み直すごとに新たなつながりが見えてくる。それはまるで、宝探しでもするかのような面白さがあった。

 

その中に、僕たちにも通ずるいくつものピースがある。「恋愛」や「家族」、「夫婦」、「クラスメイト」や「教師」、「仕事」といった、さまざまな人間模様がその物語には描かれていた。

 

この本を読み終わる時、もう何度も読み返しているにもかかわらず、僕は思わずほうと息を吐いて、物語と音楽に浸るように目を閉じる。仄かに温まった心の心地よさに、身を任せるのだ。

 

最後に想いを馳せるのは、あの隣の白い家である。あそこにはいったい、どんな人が住んでいるのだろうか。あの軽やかな音色を奏でているのは、誰なのだろう。

 

ある時、僕はふと思い立って家を出た。通りざまに、あの白い家を見遣る。すると、その家の庭に立って、ちょうどこちらを向いた女性と目が合った。一瞬、時間が止まったように感じた。

 

彼女は顔に薄く笑みを浮かべて小さく会釈した。僕も会釈を返した。そのまま、どちらからともなく視線を外し、僕は再び歩き出した。思わず、ほうと息を吐く。

 

 

つながっていく物語

 

「こういうアンケート調査ってさ、いまどきはインターネットとか使ったほうが手っ取り早いし、いいんじゃないの」

 

「痛いところを突きますね」僕は正直に答える。「うちの会社も普段は、街頭でアンケートなんてやらないんです」

 

駅の西口にあるペデストリアンデッキに立ち始めて三十分、回答に応じてくれたのは目の前の彼で二人目だった。前途多難、先行き不透明、負け戦の気配濃厚の作業だ。

 

マーケットリサーチ、という単語はすでに、時代遅れの二枚目のような恥ずかしいものに思えるのだが、うちの会社の業務内容は大雑把に言えば、それだ。

 

最近の、市場調査のやり方は大きく二つに分けられる。時代の流れに敏感な十代の女性に商品やイベントに対する意見を求めるような方法と、インターネットの活用だ。うちの会社は後者専門だった。

 

ではどうして今の僕は、非効率的の権化とも言える、街頭アンケートをしているのか? 答えは簡単だ。ネット経由で集めた。せっかくのデータが消えたからだ。

 

担当者は三十代後半の、優秀な男性だった。いつも冷静沈着、仕事は堅実で、誰からも信用され、大切なデータを管理するには適任だと誰もが認めていたが、その誰もが、彼の妻が突然、娘を連れて家を出るとは、予想していなかった。

 

サーバーのファームウェアの修復作業をしていた彼は、作業中に机を蹴飛ばし、大声で何かを叫んだ。隣に置いてあった棚が倒れ、サーバーのハードディスクが物理的に破損した。

 

あ、と横で共に作業をしていた二十七歳の後輩社員が動転のあまり、手を伸ばしたところ、たまたま手に持っていた缶コーヒーが零れ、直前にバックアップを取っていたはずのテープ媒体にかかった。見事なまでに濡れた。

 

ずいぶんしてから、二十七歳の後輩社員はどうにか正気を取り戻した。つまりそれが僕なのだけれど、僕は課長に電話をかけ、事の次第を説明した。別の社員を深夜の職場に呼び、対処をしてもらうことになった。

 

不幸中の幸いというべきか、金庫の中にしまってあったバックアップテープから、ほぼ九割方のデータは復旧できることが判明した。

 

「けどな」と言ったのは課長だった。「迷惑をかけたのは間違いないんだから、それなりに責任を取ってもらわないといけない」

 

というわけで、僕には、定時後に残業代なしの、アンケート作業が命じられたのだった。

 

 

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