特殊な能力を持った少女の、生きるための戦い『劫尽童女』恩田陸


耳から入ってきた音に、思わず眠りから覚めた。目をつぶったまま、音に意識を傾ける。車の音が、まるで間近を走っているかのようにうるさかった。しばらくそのまま目をつぶっていたけれど、耐えかねて目を開けた。

 

まず、部屋が奇妙に明るく鮮明なことに驚いた。寝る前に電気を消し忘れたかしら。見上げてみると、どうやら電機は消えている。でも、だったらこの明るさは。

 

時計の秒針の音がやたらと響いた。壁に掛けてある時計に目を寄越す。時間はまだ朝の五時だった。まだ暗いはずの時間なのに。何かがおかしい。

 

いや、待てよ。そもそも、どうして私は時計が見えたのか。視力が悪く、普段から眼鏡をかけている私は、裸眼だと世界の殆どが霞んで見える。そのはずだった。おかしい。おかしい。

 

視線が普段よりずっと低かった。いや、というよりも、今の私の視線は、ベッドの高さほどでしかなかった。寝息のような音がベッドの上から聞こえる。寝息? 私のベッドで誰が?

 

自分の身体を見下ろしてみる。毛むくじゃらの腕。私は思わず目を見開いた。その茶色い毛並みを、私は知っている。飼っている犬のアレキサンダー。どうやら、私は今、彼の身体に入っているらしい。

 

どうしてこんなことになったのか。寝る前のことを思い出してみる。ああ、そうだ、思い出した。本を読んでいたら、いつの間にか寝落ちしたのだ。

 

枕元にはきっと、その本が置かれているのだろう。恩田陸先生の『劫尽童女』。どこかライトノベルにも似た、ファンタジー作品である。

 

『ZOO』という組織に所属していた伊勢崎博士は、遺伝子操作と薬物によって動物の能力を著しく向上させることに成功した。

 

しかし、この成果を平和のために利用したいと考えた博士は、ある時、研究成果を持ったまま失踪した。以来、『ZOO』は血眼で彼を探している。

 

彼の娘、伊勢崎遥は、博士の実験によって動物のように鋭敏な五感を持っていた。戦いの中で博士を失ってしまった彼女は、『ZOO』の魔の手から逃れるために懸命に戦い続ける。

 

息もつかせない展開に、ドキドキしながら読んでいたのを覚えている。意識が眠りに落ちかけた中で、私は主人公である遥のことを考えていた。

 

平凡な人間である私にとって、強くて賢い遥は憧れだった。だから、願ってしまったのだ。「彼女みたいな能力があればいいのに」なんて。

 

でも、実際に犬と同じ五感、というか、犬そのものになってみると、よくわかる。人でありながら特殊な能力を手に入れた彼女が、何を思っていたのか。

 

彼女は孤独だ。彼女の感覚は他の人から決して理解されない。しかも、成長の過程にある彼女の能力は成長していくに従ってどんどん強くなっていく。

 

そのことが、思春期の少女にとってどれだけツライことか。普通である私が彼女に憧れたように、彼女もまた、普通の女の子に憧れているのだ。

 

ごめんね。私は誰にとも知らず、胸中でそっと呟く。彼女の葛藤が、ようやく理解できたような気がした。その瞬間、意識が穴の中に落ちていくように、暗闇に呑み込まれていった。

 

はっと、目を開ける。身体を起こすと、私はちゃんとベッドの上にいた。床では、アレキサンダーが眠っている。ああ、夢だったんだ。ほうと息を吐く。

 

ふと、枕元に一冊の本があった。『劫尽童女』。その表紙に描かれた少女が、なんだか不意にとても愛おしく思えて、私はその本を胸にぎゅっと抱きしめた。

 

 

戦いの日々

 

闇の中で、ひとりの男がその瞬間を待ち続けていた。彼の胸には緊張も興奮もない。ただその瞬間までじっと待つだけだ。

 

すぐ近くに彼の相棒が伏せている。彼はチラッと自分の腕時計に目を走らせる。所要時間は短ければ短いほどいい。突入から撤退まで、目標は三分以内だ。

 

それより一週間前、八月二十二日の午前九時過ぎ。ひとりの男が、別荘地への道をゆっくりと歩いてくる。始終に手が届くか届かないかという年齢。手には杖を持ちゆっくりと道を踏みしめてやってくる。

 

彼には連れがある。毛並みが美しく身体の引き締まったシェパードだ。主人の歩く速度を熟知しているのか、主人の少し前を歩くように規則正しいテンポで進んでいく。

 

と、足元を歩いていたシェパードがぴくりと反応した。男は左手に目をやる。林の中から大きな籠を持ったひとりの華奢な少女が軽やかに駆け降りてきた。

 

「こんにちは」

 

彼女はぴょこんとお辞儀をして、屈託のない目で正面から男を見た。男もゆったりとお辞儀を返す。

 

「足が悪いの?」

 

「もう治ったんだけどね。左足がほんの少しだけ短くなっちゃったんだ」

 

「へえ」

 

少女はもう彼の足に興味を失ったようだった。シェパードの前にかがみこむ。

 

「名前は?」

 

「アレキサンダー」

 

「立派な名前ね」

 

木洩れ日の中の少女と犬。男は一瞬、この牧歌的な風景にデジャ・ヴュを覚えた。

 

「お使い?」

 

「うん、おばあちゃんに頼まれて。おじさんはこれから夏休み?」

 

「いや、仕事だよ」

 

「頑張ってね」

 

少女は左手の急な坂を登りながら、男に手を振った。男も手を振り返す。林を吹き抜ける風が、少女の籠の蒼いナフキンをはらりと吹き上げる。

 

そこに、エアメールと思しき封筒が見え、男は思わず足を止め目を見開いた。その封筒の宛名に、「ISEZAKI」の文字が読み取れたからである。

 

 

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