息を飲んだ音が、いやに大きく響いた気がする。場には四枚のトランプ。手元には、スペードのエースと、スペードのクイーン。場にあるうちの三枚はスペードだった。
フラッシュだ。悪くない。だが、気になることがある。さっき俺は同じようにフラッシュをつくって敗北したばかりなのだった。相手のフルハウスに。
彼の目は不敵に輝く。それは勝負を楽しんでいる目だった。思わず、背筋がぞくっとする。どうしてあんな顔ができるのだろう。彼もまた、このゲームで、全てを失う可能性があるのに。
賭け金は、有り金全て。勝てば巨万の富を得られる大富豪になることができるが、負ければ俺の全てはおしまいだ。金は失い、女と息子は去り、俺の命も風前の灯となるだろう。
賭けるべきか、降りるべきか。フラッシュは弱くはない。賭けてもいい手札だと思うし、普段ならば勝負に出ているだろう。
だが、何故だか胸がざわつくような、嫌な予感が拭えなかった。相手の役の方が大きいのではないか。いや、しかし、フラッシュを捨てるのは。
時間を経るごとに、俺の胸中の不安は大きく膨れ上がっていくかのようだ。まるで怪物のようだった。俺の中で暴れまわり、トランプのカードが頭を回っている。
俺がふと、思い出したのは、中村文則先生の『カード師』だった。どうしてこのタイミングで思い出したのかというと、きっとテキサスホールデムのポーカーを作中でもやっていたからだろう。
『カード師』の主人公はひとりの男である。彼は占いの依頼と並行してカジノのディーラーを行うことで生計を立てている。イカサマも自在にできる彼は、ディーラーとしてその場を完全に支配することすらできるのだ。
ある時、彼はひとつの依頼を受けた。それは、「佐藤」という男と会ってほしいという依頼だった。なんでも、本物と思しき占いを集めているらしい。
隠居したかった主人公は、しかし、これを「最後の仕事」だと決めて渋々ながら引き受けることにした。ところが、事態は思わぬ方向に進み始める。
その作品の一節に、たしかこんな言葉があった。「トランプは多くの人の人生を壊してきた」と。
まさにその通りだ。こんなに薄っぺらく、小さな紙の束が、人間の人生そのものを大きく壊してしまうことしらありえるのだ。そう思うと、ただのトランプであっても、どこか畏敬の念を感じるようになる。
トランプの最後の一枚が、めくられた。俺はそれを見て目を見開いた。対して、相手はわかっていたかろうに、さも退屈だと言わんばかりの態度だった。
そこにあったのは、フルハウスの可能性がある場札だった。息が詰まる。これでもう、俺の判断をどうするかに委ねられた。
俺は。俺は。……賭けるか。賭けてみようか。彼の笑顔はただのブラフだ。そうに決まっている。
と、思っていたのだが、ふと、涙でぼやけた場札が、何かひっかかる。さらにじいっと見つめて、ようやく俺は気が付いた。
そう、そうだ。思い出した。俺はあの時、あの部屋でポーカーをした。そして、負けた。だが、忘れていたんだ、俺は。
妻も息子も出て行った。金はもう、一銭も残っていない。そして俺は、鉄格子の牢に入れられていた。俺の手元にあるのは、トランプくらいだった。
俺は相手のいない孤独にひとり、もう一度、カードをめくる。そこに描かれた数字を見て、思わず笑みが零れてしまった。
カードは全て知っている
小さい頃、カードをめくるのが怖かった。正体を隠し裏向きで並ぶカードたちは、無数の他人のようだった。触れようと近づけた僕の指は手前で止まり、いつも宙で悩んだ。
「市井さんの運勢は、今とてもいい流れの中にあります」
僕は言う。笑みを作るため、頬に小さく力を入れる。僕の手元のタロットカードの束を、市井が怖れながら見ている。彼女はいつも怯えている。自己肯定感が足りない。あの頃の僕と同じように。
カードを六角形の位置に並べ、中央にさらに1枚、カードを置く。整然と並べられた、美しい7枚の裏向きのカード。僕は順番にめくっていく。
「見ての通りです、……ほら」
〈太陽〉〈女帝〉〈聖杯3〉〈力〉〈恋人〉〈棒4〉〈女教皇〉
「上手くいきますよ。面接では、堂々とアピールしてください。全ていい方向に行く流れです」
カードの説明に入る。彼女が聞き入りながら、真剣にカードたちを見ている。僕がわざと、そう並ぶように仕組んだカードを。カードは誰かにめくられるまで、正体を隠し続ける。今の僕と同じように。
市井が帰っていく。満足そうに。僕はカードたちとともに1人になる。カードを整理しようとした時、1枚が落ちた。タロットなど信じていないのに、カードの落ち方に意志を感じた。
落ちたのは〈聖杯5〉。意味のひとつは”半分以上がなくなる”。僕は息を漏らすように小さく笑う。自然というより、意識的にまた頬に力を入れ、笑った感覚だった。もうひとりなのに。
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