私は誰もいないホールに、ひとりで座っていた。開幕のブザーが鳴り響き、幕が上がる。進んでいくストーリーを、私だけがただ、見つめている。
私が本を読む時、いつも頭の中でイメージするのは、そんな情景だった。映像というよりかは、演劇のような形で投影されるのである。
しかも、私自身の目は、ホールの手前から私の後頭部を眺めているのだから、不思議なものである。想像の中に、観劇する私自身がいるのだ。
その日、私が読んだのは又吉直樹先生の『劇場』だった。『火花』はなかなかに惹きこまれる作品だったが。
売れない劇作家の永田はある時、女優を目指して上京してきた沙希と出会う。永田の一目惚れだったのだろう。彼は何のつながりもなかった沙希に突然話しかける。
見ていて危なっかしい出会いを果たした二人だったが、やがて交際を始めることになった。
永田は奇抜な発想を持つが、世間におもねることを知らず、社会的な評価を得ることができなかった。
彼の発想のおもしろさを素直に楽しんでくれるのは沙希だけだった。沙希は快活で優しい女性で、気難しい永田を支えてくれた。
永田が家賃を払えなくなり、沙希のアパートにころがり込んだ時も、彼女は非難することなく、二人の生活を始める。
そんな生活に暗雲が立ち込めてくるのは、かつての永田の劇団員、青山が永田と連絡を取ってきたのがきっかけだった。
彼女から斡旋された仕事で収入を得るようになったものの、演劇に近づくにつれて、次第に沙希との距離が離れていく。
苦しい。苦しい。苦しい。演劇を眺めていた私は、今にも叫び出しそうだった。その後頭部を、私は冷たい目で見ている。
永田はどうしようもない男だ。鬱屈した自意識は肥大化し、すでに彼自身にすら飼いならせていない。彼に対して激しい嫌悪を抱きながらも、どこか、自分に重なる。
そして、もうひとり。永田の対極のように描かれるのは、青山という女だ。彼女は社会そのものだった。彼女が永田に向ける嫌悪は、世間が彼に向ける視線だった。
自分という存在を沈め、社会の中におもねる彼女のことが、私は嫌いだった。しかし、同時に、青山の存在がこの作品を繋ぎ止めているような気がする。
又吉初の恋愛小説。買う時に見た、そんな謳い文句を思い出す。今は、それに疑問を覚えざるを得なかった。
これは、はたして恋愛と呼べるのだろうか。
最初から最後まで、私にはどうしても、『沙希』という女性のことが見えなかったような気がする。
永田のような気難しい男の、誰も理解できない才能を称賛し、献身的に支え、何をしても笑ってくれる、天使のような女性。
演劇の舞台の上で、生々しく演じる永田と青山に対して、沙希の存在だけがずっと浮いていた。彼女だけが彼らの演じる舞台の上の現実ではなく、空想の脚本の中にいるような。
男が女に抱く都合のいい理想をそのまま人の形にしたかのようで、気持ちが悪かった。彼女は、永田の幻なのではないのかと疑ったほどだ。
「私は人形じゃないよ」
沙希が初めて人間となったのは、その言葉を吐き出した瞬間だった。そしてそれは、この作品の恋愛の姿そのものだろう。
永田という男による、たったひとりのお人形遊び。
ライトが落ちた暗いホールの中で、私は閉じた暗幕を眺めていた。今まで見てきたもののおぞましさに、身体を沈めて浸りながら。
開演
八月の午後の太陽が街を朦朧とさせていた。僕は新宿から三鷹の家に早く帰りたかったのだけど、人混みの中で真っ直ぐに立っていられる自信がなく、到底電車に乗れる状態ではなかった。
ついにきっかけもなく歩き出してはみたけれど、それは家を目指して歩いていたわけではなく、ただ肉体に従い引きずられているような感覚に近かった。
新宿駅の脇を抜け、明治神宮の木々から響く蝉の声を背に受けながら歩道橋を越えた。もう歩きたくなかったが、止まらなければいけない理由も特になかったので歩き続けることしか思いつかなかった。
僕の肉体は代々木体育館に沿って歩いているようで、たまに左手を山手線が音を立てて走っていった。
暗い窓ガラスが鏡のように自分の姿を映した。窓に近づくと、暗闇でしかなかった窓の奥に、白い一点の光が浮かび上がった。さらに近づくと、その空間は画廊であり、光は絵画の一部だとわかった。
少し前から、僕のほかに画廊の中を覗いている人がいた。若い女の人のようだった。
その人は画廊の内部を覗き込むようにじっと見ていた。僕はその人をじっと見ていた。この人なら、自分のことを理解してくれるのではないかと思った。
その人が僕の視線に気づいた。健康的で明るい表情に戸惑いが見えた。その人は一歩、二歩、三歩と後退するとこちらに背を向けて歩き出した。僕もその人の背中を追って歩き出したようだった。
次の瞬間、僕はその人の横にいた。その人は緊張で強張った顔を僕から遠ざけ、赤い紙を揺らした。
「靴、同じやな」
いつの間にか僕は小さな声で変なことを言っていた。その人の表情から緊張の色が消えない。
「あした、遊べる?」
また僕は変なことを言っていた。
その人は睫毛が長かった。その人が幼かった頃から今日までに、どのような生活を送り、どのように容姿を変貌させてきたのかがわかった。
これは気のせいではなかった。この人を生まれた頃から知っていて、間近で人生を見守ってきたことと等価の感覚をこの瞬間に得たのだ。これで、変人扱いをされて一度も想いを伝えられないのは残酷すぎる。
「あの、暑いので、冷たいものでも、一緒に飲んだ方が良いと思いまして、でも、僕、もうお金がないので、あれなんですけど、あきらめます。また、どこかで会いましたら」
思わぬ方向で言葉がなくなってしまった。懸命に言葉をつないでいるうちに、自分が絶望的な状況にあって、どうにもならないということに気付いてしまったのだ。
「体調悪いんですか?」
この人は僕のことなど見なかったことにして、一刻も早く、この場を立ち去るべきだったのかもしれない。
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