古典部シリーズの一作目『氷菓』米澤穂信


「なあ、古典部に入らないか?」

 

 

 放課後、帰り支度をする私に、彼はこんなことを言ってきた。彼とはよく話すけれど、特別仲が良いかと言えばそうではないから驚いた。

 

 

「古典部って、あの『氷菓』の?」

 

 

 古典部と聞いて真っ先に思い浮かぶのは米澤穂信先生の『古典部シリーズ』だろう。随分前だがアニメをしていたのもよく覚えている。千反田さん可愛かったし。

 

 

 私が聞くと、彼はまさに我が意を得たりと言わんばかりに頷いた。彼が古典部シリーズにのめりこんでいるのは知っている。なにせ、私が勧めたのだから。

 

 

「そうそう! それで、お前も古典部に入ってみないかって思ってさ」

 

 

 私は首を傾げる。何の部活があるか詳しいわけではないけれど、うちの学校で古典部に入ったなんて話は聞いたことがない。

 

 

「うちの学校にそんな部活あったっけ?」

 

 

「ない! だから今から作るのさ。今はその人数集め」

 

 

「は?」

 

 

 私は二度目の驚きを思わず口にした。つまり、彼は古典部シリーズに耽溺するあまり自ら古典部を生み出そうというのである。

 

 

「いやいや、そんなの無理でしょ。人数が集まるわけないし、学校側が許可してくれるわけないじゃん」

 

 

「ふふん、もう学校側からは人数が揃えばってことで許可済みだ。人数はお前さえ入ってくれれば既定の人数に届く」

 

 

 もうすでにある程度の形にはなっているようだ。そういえば、彼は昔から成績は悪い癖になにかと要領だけはいい人間だった。

 

 

「でも、古典部って何するの?」

 

 

「知らん。でも、いちおう先生には『作品の魅力を継承するために古典を研究する』ってな感じのことを言ってある」

 

 

「何気にそれっぽいのがなおさらだね」

 

 

 私がじとっと睨んでも、彼は意に介さずナア頼むよと手を合わせてお願いしてくる。

 

 

「……仕方ないなあ、いいよ。どうせ、私も部活してるわけじゃないし」

 

 

「やった。お前ならそう言ってくれると思ってたよ」

 

 

 私はため息を吐いた。古典部だからと言って物語みたいになるわけじゃあないのに。とりあえず形だけってところかな。

 

 

 まあ、せっかくだ。何もすることがない部活ってのも悪くはないのかも。学校内にプライベートスペースがあるのはいいことだって里志くんも言ってたしね。

 

 

 たまには『氷菓』でも読み直してみようか。あの懐かしいミステリの味わいが途端に恋しくなって、私は胸にそう決意した。

 

 

灰色の古典部

 

「まあ、こうなるだろうとは思っていたけどね」

 

 

 私は頬杖をついて本のページを開いたまま、私の他に誰もいない部室を見回した。ため息をひとつ吐き出す。

 

 

 最初こそ、彼を含めた新入部員の面々はやる気に溢れていた。それはもう、騒がしいほどだった。

 

 

 しかし、そもそも部の発足のきっかけ自体が『古典部シリーズ』にはまったからという一時的な熱狂によるものである。

 

 

 となれば、熱が冷めれば当然部活には顔を出さなくなり、次第に数も減って、というわけで、古典部は発足数週間にして早くも崩壊状態となったのだった。

 

 

 もともと、彼は熱しやすく冷めやすい性格だったことを思い出す。今となってはもう遅いけど。

 

 

 とはいえ、おかげで誰もいない静かな空き教室を独り占めできるようになったのは僥倖だと言えるだろう。

 

 

 唯一部員として出席している私はこうして飽きるまで本を読み、暗くなってきたら帰るという活動をしているのだった。

 

 

 今、私の膝の上に置いてあるのは『古典部シリーズ』の一作目であり、わが校の古典部の発足した理由そのもの、『氷菓』である。

 

 

 私は主人公の折木奉太郎が好きだった。いや、好きというよりも、彼を人生の師と仰いでいると言った方が正しいか。

 

 

 彼のモットーである『省エネ』はまさに私が目指すものそのものである。いわゆる彼の言うところの灰色の学校生活だ。

 

 

 奉太郎は省エネを自称し、灰色の学校生活だと半ば自虐していたが、彼は内心は薔薇色の活力を持った彼らを羨ましく思っていた。

 

 

 当然だろう、色が付けられるならば灰色ではなく薔薇色をつけたいと、高校生ならば誰もが思うだろう。だからこそ、私も彼も古典部に入ったのである。

 

 

 彼は古典部に入ったことで薔薇色に近しくなったが、今の私は依然として灰色のままだ。まあ、現実はそんなものだろう。

 

 

 あーあ、私の学校生活も薔薇色にならないかな。そんなことをぼんやり考えながら灰色を過ごすのが私のスタイルだ。待っていれば薔薇色になるかもしれないし。

 

 

 人は誰しも自分のスタイルを確立している。誰から言われようとも、それが自分の生き方だと胸を張っていればいい。奉太郎はそのことを教えてくれたから私の師なのだ。

 

 

 とはいえ、彼はきっと嫌な顔をするだろうけれど。小説の人物でそんなことを想像するのはおもしろい。 

 

 

 ミステリとしては、私が初めて『氷菓』を読んだ時、タイトルが意味するあまりに衝撃的な結末に鳥肌が立ったものである。

 

 

 人の心を動かす作品はいつの時代も良いものだ。この作品も歴史に残る名作としていずれ古典となるのだろう。

 

 

 その時までこの部活が続いていれば、私の後輩たちが『古典部シリーズ』を古典として扱う日が来るのだろうか。そう考えれば面白い。

 

 

 さて、そろそろ時間かな。私はスクールバックを持ち上げて、誰もいなくなった部室の鍵を閉めた。

 

 

古典部の過去を巡る仄かに切ない青春ミステリ

 

 やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことは手短に。

 

 

 高校一年生の折木奉太郎のモットーは『省エネ』である。彼は趣味もなく、意欲もなく、恋人もいない。

 

 

 そんな彼が突然に古典部に所属するというのだから、彼の旧友である福部里志は大層驚いたものである。

 

 

 彼が古典部に入部したのはベナレスに行っている女子大生の姉からの手紙が原因であった。古典部に入れと言うのは彼女からのアドバイスである。

 

 

 というわけで、もうすでに入部届けは先生に提出している。奉太郎は古典部の部室に向かった。

 

 

 部室の地学講義室は四階である。横開きのドアに手をかければ、硬い手ごたえが返ってきた。奉太郎はあらかじめ借りていた鍵で扉を開ける。

 

 

 しかし、無人であるという彼の予想は裏切られることとなった。古典部の部室には先客がいたのである。

 

 

 知らない女であった。しかし、彼女は奉太郎を知っているようで、彼の名を呼んで微笑んだ。

 

 

 彼女は千反田えると名乗った。組こそ違うが、奉太郎と同じ一年生である。彼女もまた、古典部の入部者ということで挨拶に来たらしかった。

 

 

 奉太郎は顔合わせは済ませたと帰ろうとする。戸締りは千反田に任そうと考えたが、彼女は鍵を持っていないらしい。

 

 

 それはそうだろう、鍵は奉太郎が持っているのだ。ならば、なぜ彼女はこの部室に入ることができたのだろう。

 

 

「わたし、気になります」

 

 

 好奇心旺盛な彼女の大きな瞳が、千反田えるという女性の本質であることに気がついた時には、もう手遅れだった。

 

 

 鍵のかけられた密室の謎解きに、奉太郎はしぶしぶ付き合わされることになったのである。

 

 

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