ああ、そうだ、思い出した。私はようやく自分の中に追いついてきた記憶に彼を見出して得心した。
昔から私はひどく忘れっぽい性格だった。昨日の記憶すら翌朝には忘れていた。
どうにも近頃は、それに拍車がかかっているように思えてならない。周りの反応とか見るに、そんな気がする。
宿題なんて当然のように忘れる。昨日の夕食に何を食べたかもちっとも思い出せない。
先輩後輩の顔や名前どころか、クラスメイトの名前まで忘れる。先生なんて半分以上は顔すら覚えていない。
授業の時にはしっかりと書いたノートがどのノートか忘れている。携帯の充電器はちゃんと持ってきたのにスマホを忘れる、なんてこともあった。
けれど、さすがに付き合っていたらしい彼氏の顔まで忘れていたとなると、いくら私でもこれはまずいと思い始めるのだ。
目の前にいるそこそこのイケメンはどうやら私の彼氏らしい。そして、今まさに別れようと言われているところだった。
彼の言い分では、最近、私がメールの返信もしてくれないし、学校で目が合っても無視してくる。俺は何か怒られることでもしたのか、ということなのだそうだ。
しかし、メールの返信なんて見るのを忘れているから友達すらも諦めているくらいだし、彼氏だということを覚えていなかったのだから無視ではなく認識していないだけである。
怒られるようなことを彼がしているわけではない。むしろ、私が怒られて然るべきことであろう、これは。
彼氏の名前を忘れるとか。私は若くしてボケてきているのだろうか。ここまでくるとさすがに危機感が湧いてくるものである。
嫌いになったのかと聞かれても、そもそも彼のことが好きだという認識すらなかった。なにせ、覚えていないのだ。
悲しそうに眉を下げる彼には本当に申し訳なく思うのだけれど、彼と別れることには何らこちら側に苦痛はない。
別れようと言われたならば、素直に別れよう。むしろ、よく今まで愛想尽かさずに付き合っていてくれたものだ。
きっと、約束事とか、いろいろ忘れていてすっぽかしたんだろうな。そのことすら何も覚えていないけれど。
そんなわけで彼とは別れることになった。彼からの別れを私が了承する形である。
覚えている努力をしよう。今日からメモ帳を持ち歩いて、いろんなことをメモするんだ。そうすれば、もう忘れることはないだろう。私はそう心に誓った。
翌日、私はいつも通りに忘れていた。メモ帳も、覚えている努力をしようという誓いも、なにもかも。
忘れるということ
結論、どうやらあのつい先日別れたばかりの彼氏は、彼氏ではなかったらしいということが判明した。
友人の言うところ、最近の私はどうやら誰かにつきまとわれているという不安を漏らしていたという。
たしかに、そんなことを言った気がする。今まさに言われるまで忘れていたけれど。
私が告白したとも、告白されたとも話に聞いたことはない。そして、私の知り合いではないが、遠くから私を見ている彼を何度か見かけていたのだという。
友人の推理では、あの男は私につきまとっていた男で、自分が付き合っているのだと思い込んでいたのではないか、とのことだ。
つまり、彼が勝手に私をストーキングして、勝手に妄想した挙句に、勝手に別れたということになる。しかも、私が振られる形で。
それを聞いた途端、私は思わず脱力した。振られるというより振り回されたと言った方が正しいではないか。
そりゃあ覚えていないわけだ。そもそも私は彼のことを知らないのだから。しかし、この件で友人には大いに心配され、ひとりで男と会わないようにと釘を刺された。
自分のもの忘れに大いに振り回された一件だった。これは覚えて反省しなければ、と拳を握り締めたが、翌日にはその記憶はなかった。
忘れるということは、つまり学べないということで、それはすなわち、反省も何もしていないのと同じである。
人は失敗し、反省して、二度と同じことを繰り返さないように改善する。それの繰り返しで成長していくのだ。
だけど、失敗も、反省も、忘れてしまったならば、その人の成長の道が見つかることはないだろう。
忘れたい思い出ほど忘れるべきではないのだ。楽しい思い出よりもその記憶の方が大切だと言っていいくらい。
けれど、一番の問題は忘れていることすら忘れるということだ。
だから、考えることすらしない。思い出そうとすることすらしない。消えているということすら気づかないのだ。
思い出は、それだけの人生を歩んできたという自分自身の軌跡だ。だったら、思い出がない私は、はたして人生を生きていると言えるのだろうか。
いろんなことを忘れてしまう少女のラブコメディ
ルシィ・ブランシェットは思い出した。自分がどれほど奇特な存在かを、何をしようとしていたかを、どこに行こうとしていたかを。
記憶がよみがえったのはルシィにとってありがたいことだった。森の中でどちらに進めばいいのかわかったし、そもそもどうして森の中にいるのかがわかった。
これだけわかれば十分だ。ルシィは小指の第一関節分にも満たないサイズの本を閉じた。首から下げているルーペと一緒に服の中に戻す。
記憶の限りでは自分はとある学院を目指しており、そして出席しようとしていた入学式は随分と前に始まっているはずだ。
ルシィの髪は濃い紫色である。暗い森に紫色の髪の人間ときたら、どんな動物だって気がつき警戒するというもの。
つまり何が言いたいのかといえば、クマと遭遇してしまったのだ。つまりこれは危機的状態、絶体絶命といっても過言ではない。
どうしたものか、とルシィが眉をひそめていると、声が聞こえてきた。咄嗟に視線を向け、弾けるように周囲を包んだ光に両目を押さえて悲鳴を上げた。
慌ただしげに数人が駆け寄ってくる足音がする。指示を出す声と、次いでクマが逃げ去っていく音、それと、自分に近づく誰かの気配。
目の前にいるであろう男と思われる人物に対して礼を告げて立ち去ろうとすると腕を掴まれた。
彼の言うことによると、彼はルシィが向かっている学院の先輩らしい。そしてもうひとつ、大事なことを教えてくれた。
「入学式は昨日だ」
それに対するルシィの返事は「あらまぁ」と簡素なもので、先輩は盛大なため息を吐いた。
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