肩書じゃない、本当の自分を見てほしい『天使の恋路』望月麻衣


 窓から見下ろすと、庭師に手入れされた大きな庭が広がっている。生まれた頃から見てきたそれが、今は少し恨めしく思う。

 

 

 私の生活にはいつも、何人もの使用人がついて回る。外に出る時は、屈強なボディガードが控えていた。

 

 

 彼らは私のことを「お嬢様」と呼ぶ。彼らがいるのは私にとって当たり前のことで、それを何の不思議も思わなかった。

 

 

 私の父は、いわゆる社長だった。それも生半可なものではない、多くの企業を掌握している大富豪なのだそうだ。

 

 

 評判を聞くと、父は恐ろしい人らしい。父の機嫌を損ねれば、社会的に生きていくことはできない。だから、誰もが父の顔色を見ている。

 

 

 私にとっての父は優しい人だった。私が生まれた後の肥え立ちが悪く、愛する女性を失くした父は、私を何よりも大切にしてくれている。

 

 

 父の敵は多い。私にボディガードがついているのは、私の身の安全を守るためだった。

 

 

 私にはそれが当たり前だった。他の人たちにとって、私の当たり前は、そうではなかったらしいのだけれど。

 

 

 けれど、ここ最近、その「当たり前」が辛くなってきた。普通の、教室で談笑している女の子たちのようになりたかった。

 

 

「どうされましたか?」

 

 

 ため息を吐くと、メイドが心配そうに聞いてくる。私は力なく首を振って、枕に顔を押しつけた。

 

 

 私がこんなことを思うようになった原因はわかっている。彼と出会ったからだ。彼のことが、好きになってしまったからだ。

 

 

私自身を見て

 

 彼と初めて出会ったのは、学校の校舎裏だった。彼はそこで倒れていた。制服は泥にまみれ、身体には擦り傷があった。

 

 

「だ、大丈夫ですか」

 

 

 思わず近寄ろうとしていた。駆け寄ろうとした私を手で制したのは、いつも付き従ってくれているボディガードだった。

 

 

 危ないです。お下がりください。彼は厳しい表情でそう言った。私はその時、初めて、すぐそばで傷ついている人を助けることすらできない自分がひどく小さい存在に思えた。

 

 

「じゃ、じゃあ、せめて、彼の治療をしてあげてください。怪我をしていますし」

 

 

「余計なことすんじゃあねえよ」

 

 

 私の言葉は、彼自身の言葉で遮られた。咳き込みながら立ち上がった彼は、荒々しく泥のついた自分の口元を袖で拭う。

 

 

「貴様! お嬢様になんと言う口のきき方を!」

 

 

 ボディガードが憤り、怒鳴りつける。けれど、彼は私しか見ていなかった。彼の獣のように眼光に見据えられ、私は思わず固まった。

 

 

「はん、いいじゃねぇか、別に。あんたのことは知ってるぜ。でも、すごいのはあんたの親父だろうが。あんたじゃない。何もできないお嬢様に、なんで畏まる必要があるんだよ」

 

 

「貴様!」

 

 

 今にも殴りかかりそうなボディガードに、彼はふんと鼻で笑って去っていった。私は、言葉を発することすらできず、固まっていた。

 

 

 お嬢様、不愉快な思いをさせました。申し訳ございません。護衛は謝ってくれたけれど、私は不愉快なわけではなかった。

 

 

 だって、彼が言ったことは、紛れもなく事実だったから。私がこうして守られているのは父がすごいからだ。私自身は何も持っていない、ただの小娘だ。

 

 

 彼との出会いを思い出すと、胸が熱くなる。私にそんなことを言った人は、彼が初めてだった。

 

 

 スマホを胸に抱く。最近読んでいる携帯小説に、私は夢中になっていた。『天使』シリーズの四作目になる『天使の恋路』だ。

 

 

 パリスは中国の大財閥の総帥の息子。だけど、彼は次期総帥候補としか見られない毎日に嫌気がさしていた。

 

 

 そんな時に出会った女の子。彼女は平凡な大学生で、最初、パリスの正体を知らないまま知り合った。

 

 

 けれど、もしもパリスの正体を知れば、彼女もまた、肩書だけを見るようになってしまうのだろう。彼はそう思って自分の身分を隠していた。

 

 

 けれど、ある時、気づかれてしまう。パリスは、これで彼女との平穏な時間もおしまいだと覚悟したんだ。

 

 

 彼女は、パリスの身分を知っても、何も変わらなかった。パリスはそんな彼女に、心惹かれていく。

 

 

 ひそかに恋愛に憧れていた。けれど、みんな、私を通して私の父の財力を見ている。私自身を見てくれる人なんていない。そう思っていた。

 

 

 彼となら、できるだろうか。私自身を見てくれた彼ならば。私は仄かな想いを抱いて、ベッドの上で目を閉じた。明日また、彼と話せるかなと希望を描いて。

 

 

財閥の王子が出会った運命の人

 

 小林菜摘は、午後の公園のベンチで、ガイドブックを開きながら、大きく息を吐いた。

 

 

 せっかくアメリカまで来たのに、私自身の目的が何もないから行きたいところもはっきりしない。

 

 

 それは二週間前のことだった。弱冠十六歳という幼さで飛び級してハーバードに入学した小林家の天才弟が、先日、珍しくメールで弱音を吐いたのだ。

 

 

 決して弱音を吐くようなタイプではない弟のメールに、我が小林家は騒然とした。

 

 

 大学生で時間があった私が、家族を代表してわざわざ駆けつけたというのに、弟は忙しいと言って大学に行ってしまった。

 

 

 まったく、かわいくないったらないわよ! たった一人で別に目的もなく、ボストンなんて! 英語も全然喋れないのに! そんなことを思いながら、公園内を見回した。

 

 

 大学近所の公園ということで、学生らしき姿が多く見られた。そんな中、ベビーカーを押しているおばあさんの姿が目に入った。お孫さんの世話をしているのかな?

 

 

 なんとなくそんなことを思っていると、おばあさんは知人に遭遇したようで、お喋りに花を咲かせていた。

 

 

 ベビーカーから手を離し、ジェスチャーを加えて話すおばあさんの横で、ベビーカーはゆっくりと少しずつ動いた。

 

 

 菜摘は目を見開き、身を乗り出した。やがて坂は少しずつ急になり、ベビーカーが転がるように動き出した。おばあさんは気づいていない。

 

 

 菜摘はすぐに立ち上がり、駆けだした。ころがっているベビーカーに気付いたおばあさんはうろたえ、足をもつれさせていた。

 

 

 菜摘は全力で走りだしたため、ヒールの踵が折れたが、躊躇もせずに靴を脱ぎ捨て、ころがるベビーカーに向かい走った。

 

 

 このままころがり続けると、坂はもっと急になる! 必死で手を伸ばしたが、あと少しというところで届かなかった。

 

 

 ああ、もう! あと少しなのに! 走りながら目を細めると、誰かが背後から駆け寄りベビーカーを掴んだ。

 

 

 よかったぁ。菜摘は息を切らしながら、肩の力を落とした。誰がキャッチしてくれたのかと振り返ると、そこには驚くほどの美青年が立っていた。

 

 

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