無鉄砲な青年が松山で教師に『坊っちゃん』夏目漱石


主人がまた何やら机に向かって書き物をしている。『吾輩は猫である』の成功ですっかり味を占めた我が主人は、神経衰弱も薄らいで、次なる傑作をいざとばかりに意気込んでいるらしい。

 

ひょいと膝の上で背伸びして覗き込んでみるに、どうやら次作の表題は『坊っちゃん』である。後から思い出そうとして見ても、「つ」が大きかったか小さかったかわからない。いっそなかったやもしれぬ。

 

我が主人は一時、英語教師をしていたらしい。英国留学に行くよりも前のことである。その経験を生かしたのか、『坊っちゃん』はひとりの無鉄砲な青年が教師になる話であった。

 

「おれ」、すなわち「坊っちゃん」は筋金入りの無鉄砲な江戸っ子である。そのせいで家族からは愛されず、彼を気に掛けてくれたのは下女の清だけであった。

 

大人になった坊っちゃんは母校の校長に声をかけられたのをきっかけに、四国の学校に教師として赴任することになる。しかし、そこは苦難の連続であった。

 

新任教師に対する生徒たちの嫌がらせや冷やかしに加え、事なかれ主義の赤シャツやの彼の腰巾着である野だいこの陰謀、教師のひとりである山嵐との不和。

 

立ちはだかるそれらを、坊っちゃんは持ち前の正義感と無鉄砲でぶち壊していく。陰湿な赤シャツに一杯食わせる場面などは、まことに痛快であった。

 

ところが、どうやら聞き及ぶところによると、我が主人の現実での教師生活はとても順風満帆なものであったとは言えぬらしい。すでに患っていた神経衰弱が悪化したのも、そもそもが教師であった頃のようである。

 

我が主人が『坊っちゃん』の舞台でもある松山で教師をしていたのは、神経衰弱を得た後のことらしい。奥方と出会ったのはその次に赴任した学校であったが、当時の家庭生活は荒れに荒れたという。

 

親譲りの無鉄砲で子どもの時から損ばかりしている「坊っちゃん」は、我が主人と似ても似つかない。むしろ正反対と言ってもいいくらいである。

 

「坊っちゃん」の不幸な子ども時代を羅列していく我が主人の横顔は、どこか愛おしさに満ちていた。彼を愛していたのは下女の清ただひとりだったと言うが、我が主人もまた、間違いなく自らが生み出した彼を愛していたのだろう。

 

思うに、「坊っちゃん」は我が主人の憧れの姿だったのではないだろうか。正義感に満ち、喧嘩っ早くて、困難にも怯まずにぶつかっていく。

 

彼を損させてきた無鉄砲を、我が主人は渇望していたのだと思う。神経衰弱と厭世主義に陥った主人は、「坊っちゃん」のようには振舞えなかったがゆえなのだろう。

 

人間の世は矛盾と悪に満ちている。嫌味な性格の赤シャツのように、学歴を笠に着た連中が我が世の春とばかりに好き勝手しているのが社会である。

 

人の汚さを目の当たりにした「坊っちゃん」は、下女の清がいかに善人であったかを思い知るのである。そして、彼女のような善人は、ごくわずかしかいない。人間のほとんどは、悪人か、悪と自覚せぬ悪人ばかりである。

 

つくづく猫に生まれてよかったと思う。我らは猫であるがゆえに人情を持たぬ。だが人間は、人情を持つがゆえに苦しむのである。

 

まっすぐな人間であること。そうあろうとすればするほど、生きるのが苦しくなる。まことに業の深いイキモノだと思う。大きな脳を持ったがゆえにそんな苦痛を得ねばならぬなど、なんとも皮肉なものである。

 

 

まっすぐな気性の無鉄砲な男が教師に

 

親譲りの無鉄砲で子どもの時から損ばかりしている。

 

おやじはちっともおれをかわいがってくれなかった。母は兄ばかり贔屓にしていた。

 

おれを見るたびにこいつはどうせ碌なものにはならないと、おやじが言った。乱暴で乱暴で行く先が案じられると母が言った。

 

なるほど碌なものにはならない。ご覧の通りの始末である。行く先が案じられたのも無理はない。ただ懲役に行かないで生きているばかりである。

 

母が亡くなってからは、おやじと兄と三人で暮らしていた。おやじはなんにもせぬ男で、人の顔さえ見れば貴様は駄目だ駄目だと口癖のように言っていた。

 

兄が元来女のような性分で、ずるいから、仲がよくなかった。ある時、喧嘩になって兄の眉間が割れた時、兄がおやじに言いつけた、おやじがおれを勘当すると言い出した。

 

その時はもう仕方がないと観念して勘当されるつもりでいたら、十年来召し使っている清という下女が、泣きながらおやじに謝って、ようやくおやじの怒りが解けた。

 

この婆さんがどういう因縁か、おれを非常にかわいがってくれた。清は時々台所で人のいない時に「あなたが真っ直ぐでよいご気性だ」と誉めることが時々あった。

 

母が亡くなってから五六年の間はこの状態で暮らしていた。おやじには叱られる。兄とは喧嘩をする。清には菓子を貰う、時々誉められる。別に望みもない、これでたくさんだと思っていた。

 

母が亡くなってから六年目の正月におやじも卒中で亡くなった。その年の四月におれはある私立の中学校を卒業する。六月に兄は商業学校を卒業した。

 

兄はなんとか会社の九州の支店に口があって行かなければならん。兄は家を売って任地へ出立すると言い出した。おれはしばらく神田の小川町へ下宿していた。

 

兄とおれはかように分かれたが、困ったのは清の行く先である。清に聞いてみたら、あなたがおうちを持つまでは、甥の厄介になりましょうとようやく決心した返事をした。

 

兄からは六百円を渡されたのを最後に会っていない。おれはその六百円で三年間勉強をしようと考え、物理学校に入学した。

 

三年間まあ人並みに勉強はしたが別段たちのいい方でもないから、席順はいつでも下から勘定する方が便利であった。しかし不思議なもので、三年たったらとうとう卒業してしまった。

 

卒業してから八日目に校長が呼びにきたから、何か用だろうと思って出かけて行ったら、四国辺のある中学校で数学の教師がいる。行ってはどうだという相談である。

 

おれは教師以外に何をしようという当てもなかったから、この相談を受けた時、行きましょうと即座に返事をした。これも親譲りの無鉄砲が祟ったのである。

 

 

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