妄想を楽しむ男たちの阿呆物語『太陽の塔』森見登美彦


 私は由々しき問題に直面していた。私は不本意ながら彼女に懸想している。しかし、あろうことか、彼女は私を想っていないようなのである。

 

 

 それどころか、彼女は私の存在を果たして視界に入れているのかどうかすらも怪しかった。目が合ったかと思えば、すぐにその目はそっぽを向くのだ。

 

 

 彼女はまさしく猫のようであった。好奇心は携帯の画面上にとどまることすら知らず、視線があちらこちらへと動き回る。

 

 

 その中にしばしば私のような逞しい魅力的な男が映ることすらも、彼女には文字通り眼中にないようなのである。

 

 

 私は彼女に私という存在を刻み付けるべく行動を開始した。彼女の行動を観察し、その行く先々で姿を現すようにしたのである。

 

 

 一回の出会いはただの偶然かもしれない。しかし、それが何回も続けば運命となる。その出会いは私が周到に仕掛けたものだということを彼女は知らない。

 

 

「お前、それじゃあストーカーだぞ」

 

 

 私の友人は呆れた表情で言う。私は憤慨した。私ほど硬派な男はそういないだろう。そんな私の行動をそんな下劣な存在と一緒にされてなるものか。

 

 

「何を言う。私は彼女に不埒な真似をしようとも、またされようとも思ってはおらぬのだ。断じてストーカーではない」

 

 

「ならば、堂々と彼女に話しかけて、しかるのちに告白すればよいではないか」

 

 

「それは」

 

 

 できない相談であった。不思議なことに、平生ならばカタツムリのごとく落ち着いている私であるが、彼女の前では自分を保てないのである。

 

 

 呂律は回らなくなり、顔は熱く火照り、頭は回りすぎてむしろ空回りし、手は震え、汗が出て、視線が泳ぐ。

 

 

 さながら不審者のような面持ちであろう。私自身が言うのならば、彼女はなおさらそう思うに違いない。

 

 

 きっと彼女の視線は私の平衡感覚をおかしくさせる謎めいた暗示をかけているのだ。そうでなければ、この不可解な症状に説明がつかない。

 

 

「臆病者め」

 

 

「なんとでも言うがよい。目の前に広がる大軍勢を無視して大将首を取ることなどできようはずがないのだ」

 

 

 気が長く迂遠な者こそが最後に勝利を掴むのだ。私がそう言うと、友人は呆れて肩を竦めただけだった。ちなみに彼は彼女持ちである。実に許しがたい。

 

 

 私は森見登美彦先生の『太陽の塔』という作品を思い出していた。彼は腐れ大学生を描く作品を得意としている作家である。

 

 

 違う。私はあの主人公とは違うのだ。私は祈るように心中で呟いた。私自身に言い聞かせるように。

 

 

我らが愛すべき妄想の世界

 

 我々は妄想を糧に生きている。ことに男子大学生というイキモノは、もはや妄想だけを食っていると言っても過言ではない。

 

 

 『太陽の塔』の作中で「私」はこう言っている。我々の日常の九十パーセントは頭の中で起こっている、と。

 

 

 しかし、私はあの物語を読むだに、彼らがことごとくに虚しい日常を送るのは妄想に身を任せているからではないか、と思わざるを得ない。

 

 

 妄想の世界に身を置くがあまりに現実世界を蔑ろにしているのだ。それが彼らを堕落的生活に陥れている原因なのである。

 

 

 妄想は我々の糧である。我々は妄想もなしに生きることはできない。しかし、妄想しすぎればそれはたちまち我々に牙を剥くのだ。

 

 

 私は彼らのようにはならない。妄想を妄想に終わらせないためには動かなければならないことを知ったからである。

 

 

「好きです」

 

 

 きっと、私の顔はこの上なく真っ赤になっているだろう。彼女はきょとんとしたような表情をしていた。

 

 

 はてなぜであろう、彼女は私とのめくるめく日々を忘れたのだろうかと茹だった頭で思ったが、思えばそれはすべて私の妄想であり、彼女とはほぼ初対面に近いのだった。

 

 

 私と彼女の出会いは大学の一回生の頃である。大学の入学式で、隣に座っていたのが彼女であった。

 

 

 私と目が合った時、彼女は女神もかくやと言わんばかりの美しい微笑みを見せたのだ。私が彼女に惚れたのはその瞬間であった。

 

 

 そして、彼女もまた、私に運命を感じているに違いない。そう確信したのだ。実際のところ、彼女は私の足元に寄ってしまった自分のカバンを引き寄せただけなのだが。

 

 

 私は彼女に懸想している。しかし、あろうことか、彼女は私を想っていないようなのである。

 

 

「ごめんなさい」

 

 

 その後のことはよく覚えていない。聞いた話によると、私は信楽焼の狸に抱き着いて泣き喚いていたらしい。

 

 

 私はもうこれで彼らのことを笑えまい。私もまた、妄想に耽溺した腐れ大学生のひとりとなった。

 

 

 彼らは情けなく、だらしなく、堕落している。しかし、そんな彼らは、このうえなく愛おしいのである。

 

 

失恋の痛みに苦しむ腐れ大学生の青春ストーリー

 

 大学に入ってから三回生までの生活を一言で言い表すならば「華がなかった」という言葉に尽きるだろう。そもそも女性とは絶望的に縁がなかった。

 

 

 しかし、三回生の夏ごろ、私はつい抜け駆けをした。恥をしのんで書くならば、私はいわゆる「恋人」を作ってしまったのである。

 

 

 彼女の名は水尾さんという。彼女は知的で、可愛く、奇想天外で、支離滅裂で、猫そっくりで、やや眠りをむさぼり過ぎる魅力的な人間なのだが、ひとつ大きな問題を抱えている。

 

 

 彼女はあろうことか、この私を袖にしたのである。

 

 

 それ以来、長きにわたり、私は「水尾さん研究」を行ってきた。緻密な観察と奔放な思索、および華麗な文章で記されており、文学的価値も高い。

 

 

 まだ不完全な点が多く、さらなる歳月が必要だと思っていた矢先、彼女から一方的な研究停止宣告を受けた。

 

 

 しかし、私の研究能力と調査能力と想像力をもってすれば、彼女の協力を排除したうえでも研究は成り立つ。

 

 

 この研究の副次的な目標は「彼女はなぜ私のような人間を拒否したのか」という疑問の解明にあった。

 

 

 私にとって彼女は断じて恋の対象などではなく、人生の中で固有の地位を占めるひとつの謎なのである。その謎に興味を持つことは知的人間として当然のことだ。

 

 

 よって、この研究はストーカーなるものとは根本的に異なるものなのである。

 

 

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