私は額縁の中に収められている写真をじっと見つめた。写真家であったという祖父が撮ってきたのだという写真だった。
そこには日の光を浴びて美しい橙色に輝く巨大な岩山だった。背に広大な青空を背負ったその雄大な姿は自然の偉大さを感じさせる。
その岩山はウルルと呼ばれているらしい。見た目に似合わず可愛い名前だなと思ったのを覚えている。
そこは世界の中心なんだよ、と言ったのは今は亡き祖父だった。この人はそんなところに行ったのかと私は感心した。
世界の中心。そう聞くと、私は俄然興味がわいてきた。以来、ウルルに登るのが私のささやかな夢だった。
とはいえ、近頃はウルル登山は禁止されているらしい。地元の原住民との噛み合いとのことだから、仕方のないことだとしても、私は少し悲しかった。
登らずともいい。ただ、写真ではなく私自身の目でその姿を見てみたい。私が写真家になったのも、今にして思えばそれが理由だったのかもしれない。
世界の中心、といえば、もうひとつ、思い出すことがある。それは少し前に話題になった『世界の中心で、愛をさけぶ』という作品だった。
私はそれをまず小説で読んで、それから映画を観た。そのたびに泣いた。つまり、私はこの作品に二度泣かされているのである。
私は別離による悲恋ものが好きではない。しかし、今までで一番心を揺さぶった作品はと問われたならば、私は『世界の中心で、愛をさけぶ』と答えるだろう。
映画でヒロインを務めた長澤まさみはかわいかったし、主役の大沢たかおの寂しげな表情には胸を絞めつけられる思いだった。
しかし、私は小説の方がより強く心に響いてくる。
文字に込められた強い感情に、私は呑み込まれないようにするのが必死だった。
だから、私は感動できる作品を問われたときにはこの作品を答えている。しかし、私はもうこの作品を読むことはないだろう。
私の心が世界の中心に引き寄せられて、その中に閉じ込められてしまうのではないかとすら思うからである。
愛する人との別れ
ウルルの写真を撮ってきた祖父はあの岩山を心底愛していた。彼は若い頃から幾度となくあの場所で写真を撮ってきたようである。
その理由を、私はベッドの上で寝たきりとなった祖父から聞かされたことがある。穏やかな声は、もうその時にはかつての活力を失っていた。
祖父がウルルを愛したのは、もともと祖母が好きだったためらしい。祖母はオーストラリアの自然に憧れを抱いていた。
しかし、祖母は身体が丈夫ではなかった。私が生まれた頃にはすでに彼女はいなかった。
彼女はオーストラリアに行くことを望んでいたが、その身体の弱さ故に親に止められ、その夢はついぞ叶うことはなかった。
祖父がウルルの写真を撮りためているのはそのためらしい。彼は、愛している人の見たかったものを、こんなにすごかったのだと写真で伝えようとしているのだ。
祖父の最期の言葉は、「お前や、どうだ、美しかろう」だった。彼はまるで、ただ眠っているだけであるかのようだった。
彼が最期に美しいと言ったものが何であるのか、私はわかるような気がした。お前というのが、彼が祖母を呼ぶときの呼び方だったのも。
祖父は最期に祖母を世界の中心へと導いたのだ。彼はきっと、そのまま彼女の隣に居残ることにしたのだろう。
彼は穏やかな笑みを浮かべていた。私はよかったねとだけ胸の内でささやいて、家に帰ってから静かに涙を零した。
私はきっと、今後も何度もウルルを訪れるだろう。たとえ登ることが禁じられようとも。
あそこには、きっと、アキや祖父母が今もまだ、笑っているはずなのだから。
愛する彼女との別れの思い出を描くラブストーリー
アキとは中学二年生の時にはじめて同じクラスになった。それまでぼくは彼女の顔も名前も知らなかった。
ぼくたちは九つもある中の同じクラスに編入され、担任から男女の学級委員に任命された。
学級委員としての最初の仕事は、足を骨折した大木というクラスメイトの見舞いに行くことだった。
病院の帰りに、ぼくはふと思いついて、城山に登ってみないかとアキを誘った。そのときは二人とも、中学生の男女として節度ある距離を保ちながら歩いていた。
ぼくとアキとは、その後も男女の学級委員として過不足のない関係を続けていた。一緒にいる機会は多かったが、特に異性として意識したことはなかった。
しかし、ぼくはクラスの男子たちからアキと一緒にいる時間が多いことへの嫉妬を受けたことから、彼女に意識を向け始める。
そのころアキは、ラジオを聴きながら勉強するのが習慣になっていた。ぼくは生まれて初めてリクエスト葉書というものを書いた。
その内容は、ただアキのことを書くわけじゃなくて、彼女を病気だということにして書いた。その内容は目論見通りにラジオで取り上げられた。
翌日、アキは学校でぼくをつかまえた。彼女からは自分のことを書くのは構わないが、病気をネタにして同情を買うのは嫌いだと怒られた。
ぼくは彼女の腹立ちに好感を持った。それはアキに対する好ましさとともに、はじめて彼女を異性として見ている自分自身に対する満足感だった。
三年の時はまた別々のクラスになったが、学級委員として顔を合わせる機会があった。
二学期が始まって間もない頃、彼女は昼休みに突然一冊のノートを持ってきた。それからぼくと彼女は交換日記をするようになった。
中学三年のクリスマスに、アキのクラスの担任の先生が亡くなった。弔辞を読むアキは大人びて見えて、ぼくは焦った。
いつも身近すぎて、そのためにかえって透明な存在だった彼女が、大人になりかけたひとりの女として立っていた。
その時はじめて、ぼくは彼女に想いを寄せる男子生徒のひとりとして自分を意識した。そればかりか、いまやぼくは何の苦労もなくアキとの時間を過ごしていた自分自身に嫉妬していた。
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