情熱の画家ゴッホの壮絶な人生『たゆたえども沈まず』原田マハ


 その男は、絵画の中からこちらを見つめている。彼の名を、フィンセント・ファン・ゴッホといった。

 

 

 痩せているが、印象は悪くない。赤い髭を生やした、壮年の男である。感情の見えない瞳は、静けさを湛えていた。

 

 

 しかし、その背景はなんとも奇怪である。ぐねぐねと渦を巻き、波打つ。服と同化するような絵の具の色彩が、彼の不安定な心を表しているかのようだった。

 

 

 その隣に並ぶ、同じ男を描いた絵。しかし、それは、随分と様変わりしている。

 

 

 耳を覆い隠すように、白い布を巻いていた。耳を切り落としたのだという。彼の表情は老け込み、まるで老人のように見えるほどだった。

 

 

 私が初めてゴッホの作品と出会ったのは、美術の教科書だった。並んで載せられた『自画像』に、私の視線が惹きつけられる。

 

 

 同じページに載っている他の作品と比べると、とりわけ優れた作品だという印象は受けなかった。むしろ、歪んだ線、荒々しい色遣いは、写実を好む私の目には稚拙に映った。

 

 

 しかし、あれから何年も経って、他の画家の美麗な絵画がどんなだったか、思い出せなくなっても、ゴッホの作品はずっと私の頭の額縁に収められていた。

 

 

 彼が「狂気の天才」だと呼ばれていることを知ったのは、随分と後になってからのことだ。

 

 

 ゴッホは死後になって世間から高く評価されるようになったという。彼の作品は高値で取引されているというのは、なんとなく知っていた。

 

 

 けれど、私にはその特異性がどうにもわからなかった。いったい彼の絵の、何がそんなにも多くの人を狂わせるのか。何を以て彼が「狂気の天才」などと呼ばれるに至ったのか。

 

 

 だからなのだろうか。無数にある本の中で、私がその本を手に取り、読むことを決めたのは。

 

 

 『たゆたえども沈まず』。原田マハ先生の作品だ。先生の、数多くあるアート小説のひとつである。

 

 

 その言葉は、フランスの芸術の都、パリの標語であるらしい。いくら揺れても沈まない。それはパリそのものを指しているのだという。

 

 

 その作品は、ゴッホの鮮烈な生涯を、彼の一番の理解者とされた弟のテオ、そして日本人画商の林忠正とその助手、重吉の目から描いている。

 

 

 私はそれを読んで初めて、ゴッホの作品ではなく、ゴッホという「画家」その人に触れたのだ。

 

 

 病を患いながらも、優れた作品を数多く残した情熱の画家、ゴッホ。しかし、その作品に描かれている彼の姿は、そんな華々しいものではない。

 

 

 みすぼらしい身なりで徘徊し、弟の金を飲み代に変え、絵を売ろうと足掻き、世間と迎合せず、偏屈で、暴言を繰り返し、そして、誰よりも弟思いで、ただ夢を追い求めている。

 

 

 そこに描かれているのは「狂気の天才」ではないし、「情熱の画家」でもない。フィンセント・ファン・ゴッホという、ひとりの人間の姿である。

 

 

 ようやくわかった。どうして、彼の作品がこんなにも世間から評価されているのかを。

 

 

 彼の鮮烈で、苦悩と創作に満ちた生涯。優しさを持っていたからこそ精神を病み、最後には自ら世を去ることしかできなかった。

 

 

 そんな彼の生涯を知ることで初めて、ゴッホの絵画はひとつの遠大な作品として完成するのだ。

 

 

 暗中でもがき苦しみ、光を求めて手を伸ばし、明るい色調に染まったかと思えば、次の瞬間には黒く塗りつぶされる。

 

 

 たゆたえども沈まず。彼の人生こそまさに、その言葉がふさわしいだろう。今や世界中が、彼を最高の画家のひとりとして疑わない。

 

 

フィンセントという男

 

 ひとふさの穂も残されていない刈り取り後の麦畑が広がる四つ辻に、男がひとり、佇んでいる。

 

 

 がらんと空っぽの風景だ。彼の背中はぐっしょりと濡れ、白いシャツがぴったりと貼り付いている。

 

 

 正午を告げる教会の鐘が鳴り始めた。彼は後ろを振り向くと、背筋を伸ばし、頭を垂れて眼を閉じた。彼が向いた方角に村の共同墓地があった。

 

 

 村役場の前にあるラヴ―食堂へと出向くと、入り口で店の主人らしき男と初老の東洋人が何やらもめている。

 

 

「この店の上の部屋、見せてください。私はゴッホの研究者です。だから私は、ゴッホが亡くなった部屋を見たいのです」

 

 

 彼は近づいて、その研究者に助け舟を出したが、結局断られてしまった。研究者はがっかりしたが、昼食をとることにして、晴れて店内に通された。彼もその後に続き、研究者の隣りの席に座った。

 

 

 話を聞いてみると、研究者はエーデの美術館に行き、ファン・ゴッホの作品を初めてまとめて見たということだった。

 

 

 研究者は滑舌よく、なかなかうまい英語で話し続けた。彼は黙って研究者の話に耳を傾けていたが、テーブルに勘定書が置かれたのをしおに、訊いてみた。

 

 

「あなたは、ハヤシという人物を知っていますか? ハヤシ・タダマサという日本人画商です。十九世紀末にパリの画廊で日本美術を売っていたとかいう」

 

 

「いいえ……残念ながら、知りません。その人は、ゴッホに関係のある人だったのですか?」

 

 

「私はファン・ゴッホの専門家ではないのでわかりません。機械技師です。ハヤシの名前は何かで目にしたことがあって」

 

 

 ふたりはそれぞれに勘定を済ませ、店の前で握手を交わした。研究者はシキバと名乗った。「あなたは、なんとおっしゃるのですか?」

 

 

「フィンセントと言います」

 

 

「ゴッホと同じ名前ですね」

 

 

「ええ。オランダ人には、よくある名前です」

 

 

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