ルソーを追う絵画ミステリーの傑作『楽園のカンヴァス』原田マハ


 ピカソの『アヴィニョンの娘たち』を見た時、首を傾げたのを今でもはっきりと覚えている。

 

 

 ピカソは子どもの頃、写真のような絵画を描けたという。事実、彼が十四歳に描いたという絵は、まるで写真家と思うほど精巧だった。

 

 

 そんなピカソが描いた『アヴィニョンの娘』。まるで子どもの絵のように平坦で、身体のバランスも抒情も何ひとつ感じられない女たち。

 

 

 その作品が多くの美術家たちを混乱に陥れ、多くの辛辣な批判を集めたというのも、頷ける話だと思う。

 

 

 学生の頃に見たその絵画を思い出したのは、原田マハ先生の『楽園のカンヴァス』を読んだからだった。

 

 

 ピカソが自己のスタイルとして確立するキュビズムの源泉。その崩壊した醜い娘たちのカンヴァスの下には、ピカソの発想のもととなったひとりの画家がいたという。

 

 

 私はその物語で初めて、アンリ・ルソーという画家を知った。『楽園のカンヴァス』は、彼の作品である「夢」が主軸となっている。

 

 

 早川織絵とティム・ブラウン。二人のルソー研究者が、ルソーの作品とされる「夢をみた」を巡って激しい火花を散らす。

 

 

 彼の最期の作品とされている「夢」とよく似た作品、「夢をみた」。それは果たして、真作か、贋作か。

 

 

 判断を下すための資料は、ルソー本人が登場人物として綴られる一篇の物語。二人は、その物語の結末で、驚愕の真実を知ることになる。

 

 

 作品を読んで私がまず真っ先にしたことは、アンリ・ルソーについて調べてみることだった。

 

 

 彼は高く評価されていたとは言い難く、それどころか、彼の稚拙で子供じみた作風は画展の笑い者となっていたという。

 

 

 私自身も「夢」をはじめとするルソーの作品をいくつか見てみた。なるほど、お世辞にもきれいな作品とは言えない。遠近感のないのっぺりとした印象を受ける。

 

 

 当時は、名だたる芸術家が一堂に会し、ルソーを讃える夜会が開かれたという。多くは冗談を含んだものだったが、一部の芸術家は本心から彼を優れた画家として称えていた。

 

 

 そのひとりがピカソである。当時からすでにピカソは人気の画家として名声を手にしていた。

 

 

 多くの人から笑われたルソーの作品に、ピカソは何を見たのか。多くの芸術家が彼の作品に心惹かれていたのはどうしてだろう。

 

 

 彼らの心に触れたくて、私はもう一度『楽園のカンヴァス』をめくった。あるいは、すでにもう、私はルソーの「夢」に囚われているのかもしれない。

 

 

夢の下に隠された秘密

 

 ここに、しらじらと青い空気を纏った一枚の絵がある。画面に広がるのは、翼を広げて飛び立とうとするペガサス、その首に植物の蔓を投げる女、彼女の足もとで花を摘む少年。

 

 

 早川織絵は、この絵の前で長らく立ち止まっていることが多い。

 

 

 監視員であるからには、美術館内の持ち場を一定時間動き回って、あちこちを見回る必要がある。が、織絵は近頃、この絵が気に入っていた。毎日毎日、飽かず眺める。

 

 

 この作品は四連作のひとつだという。他の三点がどんなものか見てみたい、と織絵は密かに願っていたが、どうにか我慢して調べずにいた。

 

 

 自分が興味を持った作品について調べ始めたらどういうことになるか。それは、固く封印してきた「パンドラの箱」を開けてしまうようなものだとよくわかっていた。

 

 

 四十三年間生きてきて、ひょっとすると、今がもっとも美術作品の近くに寄り添い、その目を見つめ、声を聴いているのではないか。そんなふうにも思う。

 

 

 『画家を知るには、その作品を見ること。そういう意味では、コレクターほど絵に向き合い続ける人間はいないと思うよ。

 

 

 ああ、でも、待てよ。コレクター以上に、もっと名画に向き合い続ける人もいるな。誰かって? 美術館の監視員だよ』

 

 

 ふいに懐かしい会話を思い起こした。もう十何年も前の、なんてことのない会話が、こんなふうに唐突に、そしてまざまざと蘇ることが時折ある。

 

 

 早川さん、と囁き声で呼ばれて、我に返った。傍らに、優梨子が佇んでいる。

 

 

「小宮山さんが、すぐ学芸課まで来てほしい、言うておられるんです」

 

 

 織絵は首を傾げた。この美術館に監視員として勤めてかれこれ五年になるが、総務課はさておき、学芸課に呼び出されたことなど一度もない。

 

 

 学芸課のドアをノックして、「失礼します」と恐る恐る開ける。デスクの一番奥に学芸課長の小宮山晋吾が座っている。

 

 

 小宮山は何の説明もなく、織絵を館長室に連れて入った。館長室には、館長の宝尾義英と、新聞社の高野という男がいた。

 

 

「早川さん。あなたは、ティム・ブラウン、という人をご存じですか?」

 

 

 織絵は、きゅっと口を結んだままで小宮山の顔を凝視した。小宮山は、織絵の顔にみるみる驚きの色が広がるのを見逃さなかった。

 

 

 信じられない。ティムが……あのティム・ブラウンが、十七年の時を超えて、今は一介の監視員をしている自分の目の前に、かくも鮮やかに現れたのだから。

 

 

 ごとり、と鈍い音が耳の奥で響く。これは、何の音だ。ああ、そうだ、蓋の開く音だ。

 

 

 日本へ舞い戻り、真絵が生まれて、かれこれ十六年もの間、重く固く閉じられていた「パンドラの箱」。その蓋が、今、開けられたのだ。

 

 

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