心にふと、魔が差す瞬間『鍵のない夢を見る』辻村深月


 かわいいブレスレット。でも、財布の中にはお金がない。私は恐る恐る周りを見た。誰もいない。店主はどこかに行っているようだった。ごくりと息を呑む。

 

 

 心臓が止まるかのようだった。私の動きは不自然ではないか。身体がまるで他人の身体を動かしているかのようなぎこちなさを覚えた。

 

 

 足は、どう動かしていた? 息が荒くなっていないか。できるかぎり、何気なく、普段通りに見えるように努める。

 

 

「ありがとうございましたぁ」

 

 

 店主の気の抜けた見送りの言葉に、思わず肩が跳ねる。私はそのまま店を出た。気付かれたらどうしよう。そのことが、ずっと頭の中に渦巻いている。

 

 

 すぐにでも、普段から優しく微笑んでくれる店主のおじさんの顔が鬼のように変貌して、私の肩を背後からごつごつした力強い手で掴むのではないかと思うと、恐怖で身が竦むようだった。

 

 

 思わず視線があちらこちらを走ってしまう。普通にしようと思えば思うほど、びくびくしてしまう。誰かの視線が、私のポケットの中にあるブレスレットに気が付くのではないかと。

 

 

 軽いはずのブレスレットが、とてつもなく重く感じた。それはきっと、私が感じている罪の重さだ。

 

 

 もしも、見つかってしまったら。私は犯罪者になるだろう。いや、もう犯罪者になっている。親には怒られるだろうし、学校の友だちもいなくなるかもしれない。

 

 

 魔が差した。そう、その言葉がふさわしいような気がした。あの、どうしようもなく駄目だと知りながらも、してしまう感覚。

 

 

 辻村深月先生の『鍵のない夢を見る』を思い出す。オシャレなタイトルに惹かれて読んでみた一冊だった。

 

 

 テレビや新聞の一面記事で大きく取り上げられる事件ほど大きくない、地方の、とても小さいコミュニティだけを騒がせる、田舎の事件。

 

 

 それに当事者として、あるいは第三者として関わってしまった女性たちを描いている。

 

 

 ニュースが毎日のようにひどい事件を報道しているのを聞くと、うんざりする。どうしてあんなにも不幸なことを朝の時間にするのか。そちらの方が視聴率が稼げるとは知っていても、もやっとする。

 

 

 どうしてそんなことをやったのだろう。事件を起こした顔を見て、いつもそう思う。けれど、そんな彼らもきっと、「魔が差した」のだろう。

 

 

 テレビで報道されるのは、見ている人が思わず食いつくような、大きな事件ばかりだ。きっと、その裏では、ニュースに取り上げるまでもない事件がいくつもころがっている。

 

 

 私がやったのは普通のことなのだ。世界中で起こっている小さな事件の、数千、数万のうちのひとつに過ぎない。

 

 

 あの当時はまだ、私は『鍵のない夢を見る』の女たちの感情を理解できなかった。犯罪をする方も、それを見ている方も。

 

 

 けれど、今ならば、わかる。「魔」の心に耳を傾けることの快感を。社会の決まりに、親の言葉に、世間の良識に抗うことの楽しさを。

 

 

 彼女たちもまた、こんな気分だったのだろうか。怖くてたまらないのに、どこか気持ちいい、矛盾した気持ち。

 

 

 ポケットがかちゃりと音を立てたその瞬間、私の肩を誰かが掴んだ。心臓が止まる。私の肩を掴んでいるのは、男らしい、ごつごつした手だった。

 

 

小さな事件に揺り動かされる女たち

 

 生温かいバスの車内で、前に立った彼女の顔を見た時、「あ、りっちゃん」と思った。

 

 

 いったい何年ぶりになるだろう。意志の強そうな目と黒く艶やかでまっすぐな髪が変わっていない。

 

 

 観光客に頭を下げ、「おはようございます」とマイク越しに声を張り上げる。中高年を相手にすることに馴れた、落ち着いた声の出し方だった。

 

 

「今日から二日間、皆様とご一緒させていただきますガイドの近田と申します。運転手は岡本。ご挨拶させていただきます」

 

 

 紺のベストとスカート、薄いストライプの入った白いシャツに黄色いネクタイ。かぶった帽子にも同じ色のリボンが巻かれている。

 

 

 大人になったのだ。バス遠足で子どもとして座っていた私たちが、ガイドや教師になる。そういう年になったのだ。

 

 

 私の隣り、窓際の席に座ってお茶とお菓子を取り出した母は、目の前のバスガイドが娘のかつての同級生だと気付いた様子がなかった。

 

 

 近田と名乗った。私の知っている苗字とは違う。胸の底が、ざわりと波打つような感覚があった。結婚、したのか。

 

 

 客のひとりにマイクを向けて笑いかけた彼女の姿に、ああ、と目を細める。彼女はおそらく、誰に会っても構わないと、本心から思っているのだ。

 

 

 この土地を離れなかったのだとしても、彼女には何ら後ろめたいところはないのだろう。結局、この町に根を下ろしている。

 

 

 ふっと思う。そんな彼女の一方で、果たして、私はここで何をしてきただろうか。

 

 

 彼女の声を聞きながら、記憶が子どもの頃に巻き戻されていく。りっちゃん、と呼び掛けた私の声を封じ、こちらに向けられた彼女の背中を思い出す。私たちは、たしかにもう大人だった。

 

 

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