葦原金次郎という男がいる。埼玉県で暮らしていた平々凡々な櫛職人の男である。彼のことを、人は嘲笑と侮蔑と畏敬を込めて、「将軍」と呼ぶ。
如何にも凡庸な男である彼が、いったいどうして将軍と呼称されるまでに至ったか。その所以は実に奇矯なものである。
二十四の頃、彼は精神を患い、重度の誇大妄想に取り憑かれた。自らを「将軍」と呼び、数々の逸話を打ち立てたことで日本中の笑い者となった。
精神病院に入院した後も、メディアは彼の言動を取材し続け、彼の過激かつ大胆なその物言いは格好のゴシップとして大いに茶の間を賑わせることとなったのである。
しかし、彼の本当の悲劇は、この長らく彼を支配した精神病のことではない。彼の顛末は、筒井康隆氏の記した『将軍の目醒めた日』に克明に記録されている。
ある時、突然、彼は正気に戻ったのだ。一切の前兆もなく、唐突に。医師は、彼の発狂を躁病による妄想だと捉えた。すなわち、躁鬱の周期が切り替わり、うつ状態になったことで狂気から目覚めたのだ、と診断した。
当然ながら、彼は大いに戸惑った。当然のことであろう。かつて若者だった彼は発狂している間に老人となり、精神病の患者として社会の居場所も何もかもを失ってしまったのだから。さながら浦島太郎の如しである。
それもまた、十二分に悲劇だろう。しかし、彼の最大にして最悪の悲劇はこれからである。
医師は正気に戻った彼に、今もなお狂っている振りをしてくれと頼んだのだ。なぜか。それはすでに、彼自身が「将軍」という狂人としてあまりにも有名になっていたからである。
医師はメディアから取材の報酬を受け取っていた。また、メディアにとって彼は格好のネタだった。さらに、彼の大胆な戦争論によって活気づくことを目論んだ軍にとっても、「将軍」は非常に好都合な存在だったのだ。
よって、金次郎は、正気であるにも関わらず狂気の「将軍」を演じることとなってしまった。彼にはすでに、この世で生きるにはそれ以外の道がなかったのだ。
筒井康隆氏の描いたそれは、ただの小説に過ぎないという意見もある。筒井康隆氏はSF作家の名手であり、彼が書いた短編のひとつである「将軍」の物語は、ただのフィクションに過ぎない、と。
明治後半から昭和にかけて確かに生きていた葦原金次郎は、記録にも残されている、紛れもない実在の人物である。果たして、この物語は、彼をモデルとして描かれたものでしかないのか。
否、私はそうは思わない。なぜならば、私がこの物語を読む前から、私自身の記憶の中に、この物語の結末が確かに残っているのだから。
彼の物語を読んだ瞬間、私の脳髄に電撃が走った。そう、思い出したのだ。忘れていたかつての我が繁栄を。そして、階段を転がり落ちるかの如く我を襲った悲劇を。
我こそが、「将軍」葦原金次郎である。より正確に言うならば、葦原金次郎の生まれ変わりと言えるだろう。彼についての記憶を、私は克明に覚えている。
今の世は、戦争がない。しかし、もうじき世界全てを巻き込む大戦乱が起こるであろう。その時に、大日本帝国を導けるのは、この我しかいない。
未来を憂う日本国の運命そのものが、救世主たるこの私を現代に呼び戻し、記憶を取り戻させたのだ。
さあ諸君! 剣をとれ! 拳を掲げろ! 戦いだ! 戦いだ! 思い出せ、大日本帝国の誇りを! 日本人の誇りを! 不安に駆られる必要はない! 諸君の先導を受け持つのは、この将軍なのだから!
ひとりの狂人の悲劇
甲高い調子はずれな女の歌声に、金次郎は目覚めた。心地よい目覚めとは言えなかった。長い長い夢を見ていたようだった。しかし、どんな夢だったか、思い出すことはできなかった。
金次郎は周囲を見回した。そこは九畳の間だった。窓がひとつしかないために室内は薄暗い。部屋には彼ひとりだった。
どこだ、ここは、と、金次郎は思い、もう一度声に出してつぶやいてみた。「ここはどこだ」しわがれ声だった。なんだこの声は、まるで老人の声ではないか。そう思いながら金次郎は、自分の手の甲を見た。
その手は、老人の手だった。老人斑が出ていて、静脈がふくれあがっている。少なくとも六十歳以上の老人の手だった。
「あら将軍。もう早、お目覚めでございますか」背後で女のがらがら声がした。「はい。新聞を持ってまいりましたわ」女は部屋を出て行った。閉じられたドアを眺めながら、金次郎は首をかしげた。
「将軍だと」金次郎はぼんやりつぶやいた。「おれが将軍だって。まさか」また周囲を見回した。新聞を拾い上げた。新聞の日付は大正十一年三月二十日だった。
「大正十一年」もう一度新聞を眺めた。「た、大正十一年。なんだ。大正とはいったい、なんだ」彼は明治が何年で終わったのか、知らなかった。しかし、年号が変わったらしいことはすぐにわかった。
彼はまた、眼前の宙を睨んだ。「十一年以上も、何をしていた」ゆっくりと、かぶりを振った。「十一年以上も、おれは何をしていた」
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