僕は自分の相棒ともいえるカメラを、思いきり床に叩きつけた。レンズが割れ、キャップが弾け、砕けた黒い箱の中からカメラのいわゆる内臓が辺りに散らばる。その胃袋に詰まっていたのは、僕が正義だと思い込んでいた罪の記録だ。
僕はとある出版社に勤める雑誌記者である。いや、だった、と言った方が正しいだろう。もう僕は二度と取材なんてできないのだから。
僕が記者になったのは、あの恐ろしい震災の記憶がきっかけだった。当時、記者を勤めていた父とともに、僕たち家族は震災に巻き込まれた。
幸いにも命は助かったが、多くの命が失われた。街も、生活も、すべて津波に呑まれた。もう二度と会うことができなくなった知り合いも、何人もいる。
父は記者の使命として、震災の被害を受けた彼らを取材し、撮り続けた。その活動は多くの支援を被災地に呼び込んだ。みんなのために彼らの生きる真実の姿を撮り続ける父の姿に、僕は憧れたのはその時だった。
夢が叶って記者になった後は、とにかく必死に走り回った。競合他社よりも先に取材し、有力な情報を手に入れなければ雑誌にすら載せてもらえない。
「手段は何でもいい、とにかく特ダネを手に入れるんだ」編集長は低い声でそう言った。ほんの一秒の差で、特ダネの鮮度は変わってくる。だからこそ、本当に「何でも」やった。
被害者の家族に取材するために入り口で待ち続け、少しでも顔を見せればマイクを手に迫る。彼らの嫌そうな、傷ついたような表情も気にならなかった。とにかく、記事のため。それだけを考えていた。
そんな僕の目を覚まさせたのは、友人に勧められて読んだ本である。筒井康隆先生の『串刺し教授』。ものものしいタイトルが気になったが、読んでみることにした。
それは短編集のようである。だが、何というか、今まで読んだことがないような、いろいろとヘンな作品ばかりだ。先生らしい実験作が多い。
サラリーマンが奥様言葉で話し、極道がオネエ口調で話す『言葉と〈ずれ〉』。荒れた学校を背景にシナリオを進めようとするパロディ『シナリオ・時をかける少女』。句点と読点をあえてなくした『句点と読点』。
奇妙な作品を読み続けていると、とうとう最後の作品に差し掛かった。表題にもなっている『串刺し教授』という短編だ。
主人公はどうやら僕と同じような、記者らしい。彼はこれから被害者の家族のひとりに会いに行かなければならないようだ。
被害者というのは、崖上の邸宅から転落して鉄柵に串刺しになった大学教授のことである。彼はその凄惨な事故に思いを馳せていく。
だが、どうやら彼の取材の本筋は、どうやらその事故にあるわけではないらしいと気付いたのは、しばらく読んでからである。
本筋は、第一発見者であるガソリンスタンドのサービスマンが、警察や救急車を呼ぶでもなく彼を助けようとするでもなく、彼にカメラを向け、写真を撮ったことにあった。彼はその写真を週刊誌に持ち込む。
どうやら、結局は亡くなってしまったらしい教授の、遺された家族が、彼を告訴したのだという。一枚目の写真を撮った時は、まだ教授は生きていたらしい。
まったく、なんだこの男は。人として最低じゃないか。それは告訴されて当然だろう。と、そう考えて、ふと、自分の記者人生を思い返した。そして愕然とした。
その言葉は、僕自身にも当てはまるんじゃないか。今まで僕が記者としてしてきた取材は、果たしてどうだっただろうか。事件や事故の被害者の悲痛な表情が頭に浮かぶ。僕は彼らの哀しみを、不幸を、食べるための糧にしてきたのだ。
作中の一文が、頭によぎる。
「あなたに尊厳はありますか。あれば見せてください。人間の思い上がりですよ尊厳なんて。例えば凶悪殺人犯と収賄した元首相と大学教授、新聞記者を含めてもよろしい。人間としてどこに違いがあるんです。あるというなら差別だ」
違う。違う。違う。人間の尊厳を否定なんてできやしない。僕は、自分の尊厳を、正義を貫くために記者になったのだから。だけど、なら、僕のしてきたことは。記者のしていることは。
人の不幸を貪り、ぶくぶくと醜く膨らんでいくメディアという怪物。腐臭を放つその忌まわしい姿の、僕はたしかに肉塊の一部となっていたのだ。
僕はちらりと視線を送る。入社した時、父がお祝いにと買ってくれたカメラ。そのレンズを覗き込む。映っていたのは、醜悪な怪物の顔。僕は叫び声をあげながら、カメラを持った手を思いきり振り上げた。
人間の尊厳の屍の上に
彼は編集局を出てエレベーターで社のロビーへ降下する。これから被害者の家族に会わねばならない。いやしかしあれは被害者と言えるのかどうか。これから会って取材する被害者の息子をこそ被害者というべきなのではないか。
タクシーの中で彼はまた被害者である大学教授が実際に被害者と言えるのかどうかを考える。直接被害を受けたといえるのは大学教授の死の瞬間の写真が週刊誌に掲載された時であろうが、その写真を見て怒りを自覚し被害を受けたと判断したのは教授の家族なのだ。
しかしそう断じてよいのであろうか。家族の怒りは教授の怒りを代行しているのではなかろうか。そもそも死の寸前教授に怒りの感情はあっただろうか。
兵頭教授の邸宅は崖の上にある。植木の手入れをしていた教授は足を宙に踏み出して転落した。隣家は崖下にありその庭は鉄柵で囲われていた。
ただ転落したというだけでその恐怖からおそらく教授は一瞬気を失ったことであろう。次に教授が気付いた時、教授の肉体は一番端の長い角バーに刺し貫かれている。
自分の肉体が置かれている状態を知って教授は何を考えたであろうか。いや、その前にまず、痛みはあったであろうか。串刺しに貫かれたばかりであり仰天が先にきて痛みを感じている暇はなかったのではないか。
教授は意識をいったん取り戻したのでありそれはあの週刊誌の一枚目の写真によってはっきりしている。意識を取り戻した限りは何かを考えたに違いないのだが何を考えたのであろうか。
教授は折よく彼方からやってきた若い男に気付く。だが声は出ない。教授が声を出さなかったことは目撃者であるその若い男つまりガソリン・スタンドのサーヴィスマンである木幡正二がコメントしている。
木幡正二にはすぐに状況を呑み込めたか。教授が首をあげ自分に何やらもの言いたげな目つきと口もとをして見せ、はじめてつくりごとでないことが直感できる緊迫した悲惨さを感じたことであろう。
しかし次の状況に転換するなり教授は絶望しただろう。
青年は「びくびく」しながらも教授に近寄ってくる。そして立ち止まる。手にしていたカメラのキャップを慌ただしく外す。構える。教授を撮影し始める。目撃者=コメンテーター木幡正二はこの時より撮影者になった。
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