狐に似たケモノを取り巻く謎めいた恐怖『きつねのはなし』森見登美彦


 森見登美彦先生の書いた作品の中に、『きつねのはなし』ってのがあるでしょう。ここ最近ふとした時にあの作品を思い出すんです。

 

 

 私、森見登美彦さんのあの古めかしい言い方とユーモアのあるキャラクターが大好きで、『夜は短し歩けよ乙女』や『太陽の塔』なんかをよく読んでいました。

 

 

 『きつねのはなし』を読んだのも、きっかけは森見登美彦先生が書いたから、とか、そんな単純な理由だったと思います。

 

 

 ですが、読み始めた時に、おや、と思ったのです。

 

 

 森見登美彦先生の作品の特徴である、あの古めかしい書き方ではありません。別の作品ともどこかしらにある共通点も、舞台が京都であること以外、見受けられませんでした。

 

 

 雰囲気も全然違っていて、あの溢れるようなユーモアは影も形もなく、これは本当に森見登美彦先生の作品かしら、とすら思えるほどでした。

 

 

 しかし、まあ、森見登美彦先生の作品ならば面白くないということはないだろう、と思いまして、私はその作品を最後まで読むことにしたのです。

 

 

 作品、というよりも、『きつねのはなし』は短編集ですので、作品群、と言った方がよかったでしょうか。

 

 

 読んでみますと、やはり森見登美彦先生らしさは微塵もありません。女性に飢えた腐れ大学生も、奇妙な行動理念を持った団体も。

 

 

 しかし、ホラー小説という点で見ると、やっぱり、どこか普通のホラーとは違ったような感じがするんです。

 

 

 ほら、普通のホラーって、幽霊が出たりとか、人が次々にいなくなったりとか、そんな感じじゃないですか。

 

 

 『きつねのはなし』はそうじゃないんです。すごく説明しづらいんですけれど。

 

 

 こう、漠然とした恐怖、とでも言いましょうか。恐怖の根本が何かっていうのがわからないんです。

 

 

 ただ、文章全体に漂う不気味な妖気、だとか、正体のわからない恐怖、みたいな。

 

 

 ええ、わからないですよね。私もわからないです。はたしてどう伝えれば、この感覚が上手く伝えられるのか。

 

 

 狐に似たケモノは何なのでしょう。狐のお面をかぶった男。人の顔がケモノに見える。そうした謎が、明かされることもないままに進んでいって。

 

 

 ええ、そうですね、まさに狐につままれたような、そんなもどかしくて、気味の悪い読後感が私の中に残りました。

 

 

 読後感が消えた後も、しばしば、その気味の悪いケモノが私の頭の中を駆けまわっているような、そんな幻を私は見るようになったのです。

 

 

狐のお面

 

 さて、本題はここからなのですが、『きつねのはなし』を読んで以来、私は狐のお面がどうにも苦手になってしまって。

 

 

 ええ、そうです、あのお祭りとかでよく見かける、あのお面です。あのお面がどうしても怖くなったのです。

 

 

 あのお面を見ると、不意に頭の中に思い浮かんでくる光景があるんです。祭囃子、狐のお面を被った男の子、静かな神社の石段。

 

 

 どうしてだろう、と思っていたのですが、まあ、ここはひとつ、私の話を聞いてください。

 

 

 姉に聞いたところ、私は幼い頃に一回だけ、お祭りの最中で姉とはぐれてしまったことがあったそうです。

 

 

 姉が再び私を見つけた時、私はひとりで郊外にある神社の石段に座っていたのだとか。手には買ってあげた覚えのない、狐のお面を提げて。

 

 

 誰がそのお面をくれたのでしょうね。なにぶん幼い頃のことなので、私自身も記憶は曖昧なのですが。

 

 

 姉とはぐれた私はぐすぐす泣きながら姉の姿を探していました。しかし、子どもが背伸びしたところで、人混みの中から姉の姿を探せるわけはありません。

 

 

 そんなわけで人混みに流されてふわふわしていたわけですけれど、ふと、私に声をかけてきた誰かがいたのです。

 

 

 紺色の甚兵衛を着た男の子でした。私と同い年くらいの。彼の顔は狐のお面で隠されていました。

 

 

 彼は私といっしょに姉を探してくれると言ってくれました。そして、彼に手を引かれて、私はお祭りの中を歩いていたのです。

 

 

 彼は不思議でした。屋台で売っている林檎飴や水風船をお店の人に声もかけずに勝手に取って行くのです。

 

 

 普通なら怒られそうなものですけれど、どういうわけか、お店の人は何も言いませんでした。それどころか、まるで私たちの姿が見えていないかのようでした。

 

 

 散々祭りを回っていくうちに、私もなんだか楽しくなってきて、姉とはぐれている不安も消え去っていました。

 

 

 そうして、私は彼に連れられて、あの神社の石段に来たのです。ええ、姉が私を見つけたところですね。

 

 

 そこは祭りの会場からは少し離れていて、どこか別世界のような静けさが漂っていました。

 

 

 彼は私に神社の境内にまで登るように言ってきました。そっちの方が打ち上げ花火がきれいに見えるから、と。

 

 

 ですが、鳥居の奥の暗がりに見えた神社はそこはかとなく不気味で、私は行くのを嫌がりました。

 

 

 男の子は怖くないよいいところだよと言っていましたけれど、私は顔を伏せたまま、その場を動きませんでした。

 

 

 やがて、彼の声はいつの間にか聞こえなくなって、代わりに姉が私を呼ぶ声が聞こえました。顔を上げると涙で顔をくしゃくしゃにした姉がいました。

 

 

 さて、以上が、私が幼い頃に体験した話です。今でも狐のお面を見るたびに、あの時のことをうっすらと思い出します。

 

 

 あの時、私が彼の言うとおりに神社の境内に行っていたら、どうなっていたのでしょうね。どうなることもなかったのかもしれませんが。

 

 

 お祭りの日って、たくさんの人がいますよね。その中には、人間じゃないものも、いくらか紛れているのかもしれません。

 

 

京都の片隅の暗がりにひそむ底知れない謎

 

 天城さんは鷺森神社の近くに住んでいた。芳蓮堂の遣いで初めて天城さんの屋敷を訪ねたのは初秋の風が強い日だった。

 

 

 私はナツメさんに渡された風呂敷包みを脇に抱えて冠木門をくぐった。庭にまわり、沓脱の前で声をかけると、暗がりから天城さんが出てきた。

 

 

 天城さんは憮然とした顔をして、私を奥に案内した。屋敷の中はどこまでも暗い。天城さんは明かりをあまり好まないらしい。

 

 

 芳蓮堂は一乗寺にある古道具屋である。ナツメさんが自嘲的に言ったように、由緒正しい骨董屋ではない。

 

 

 私が彼女に初めて会ったのは大学二回生の頃であった。当時、私は弁当の宅配をしていて、彼女の店へ配達に訪れたのである。

 

 

 弁当屋をやめた後に店を訪れると、アルバイト募集の貼り紙があった。私は一風変わったアルバイトを始めてみたくもあった。

 

 

 ナツメさんから、天城さんは特別なお客様だと聞かされていた。ナツメさんからの包みを渡すと、天城さんは唇を捻じ曲げるようにして笑った。

 

 

 天城さんの屋敷へは幾度も通った。面会場所は決まって、あの妙に細長い座敷だった。

 

 

 芳蓮堂であまり失敗はしたことはなかったが、その日はたまたま調子が悪かった。アッと思った時には箱を取り落としていて、転びだした皿が欠けてしまった。

 

 

 ナツメさんから天城さんのところへ行くよう頼まれる。彼はこういった面倒事を収めるのが上手いらしい。しかし、彼女からひとつだけ、注意を受けた。

 

 

「天城さんがあなたに何か要求するかもしれませんが、決して言うことを聞いてはいけません。どんな些細なものでも決して渡す約束をしないでください」

 

 

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