愛おしい、愛おしい私の子ども。夜遅くに響き渡る小さな怪物の泣き喚く声。私は寝不足の頭でぼんやりと、我が子をじっと見つめていた。その短くて小さな首を。
結婚する前から、子どもを育てるのが夢だった。それは、親戚の子どもの可愛さに胸を撃ち抜かれたというのもあるし、家族や周りの望みだったということもある。
特に、子ども好きなことで意気投合したことから結婚にまで至った夫とは、「こんな子がいい」と語り合える最高のパートナーだった。念願の子どもを授かった時には、二人手を取り合って泣いて喜んだ。
猿のような顔をくしゃくしゃにして泣く小さな我が子と初めて会った時は、産む時の苦しみの余韻も一瞬吹き飛んで愛おしさで胸が溢れそうだった。
ずっと待ち望んでいた、最高の幸せ。けれど、幸せな記憶は、そこまでだった。後から現れた暗い記憶が、幸せを塗り潰していく。
育児は想像を絶するほど過酷だった。大変だという話は聞いていたし、覚悟もしていたが、これほどまでとは思わなかった。あの時の親戚は、どうしてあんなにもきれいに笑うことができていたのだろう。
朝だろうが夜だろうが、耳が張り裂けそうなほどの声で泣く。慌ててあやしても、何が原因なのかすらわからない。我が子が眠りについた時だけが安息だった。
結婚前には「二人で育てていこう」と言っていた夫は、まったく手伝ってくれない。それどころか、仕事から帰ってきてすぐ、ようやく寝付いた我が子を抱き上げて起こした。
休日には、泣いている我が子をあやす私を睨みつけ、「早く泣き止ませろよ」と言うだけ言って部屋に閉じこもる。結婚前のあの夫は、いったいどこに行ってしまったのだろう。
眠気を覚まそうと洗面台に行って、鏡を見てぞっとした。痩せこけて、目の下は隈が差し、髪は艶がなく、まるで幽鬼のようだった。
この子さえ。この子さえ、いなければ。我が子を見下ろして思う。指をしゃぶりながら何物も恐れるものがないような顔で眠る我が子は、愛おしくて、憎らしかった。
ニュースで、自分の子どもを手に掛ける母親を見た時、憤る思いがいっぱいだった。かわいい子どもになんてことを、信じられない、と。
テロップに流れている犯人の母親の名前。私の名前だった。私は愕然とする。そんな。そんなはずが。自分の手を見下ろした。その先にいる我が子。息もしていない、愛おしい、我が子。
はっと目が覚めた。我が子の泣き叫ぶ声にうんざりして、けれどどこか、ほっとする。我が子のもとに行って、見下ろした。息もしている。私の子どもは、生きている。
私が寝た布団の枕元に、金原ひとみ先生の『マザーズ』が放り出されていた。昨日、それを読んでいる途中で寝てしまったのだ。
子どもを育てる三人の母親。彼女たちはみんな、育児に疲れ果てて、苦しんでいる。結婚前に買ったはいいものの、当時はあまり気に入らなかった、その本。
けれど、彼女たちと同じ「母」になった今。子どもの存在を素直に喜ばないその物語が、私を支えていた。
私は孤独だった。夫も助けてくれない。誰も頼る人がいない。私はたったひとりで、泣き喚く怪物を相手にしなければならなかった。
でも、今は違う。私と同じように孤独な母親たちが、たくさんいる。そのことが、私に勇気をくれた。戦っているのは、私だけじゃないんだ。
ひとつの命を育てるということ
体育座りを始めて、どのくらい経つだろう。石膏で型取りされているかのように全身が固まっていて、どこかを動かせばぎしぎしと音がしそうだった。
「ユカさん」
僅かに顔を上げて視線を巡らせ、オギちゃんの姿を見つけた。
「行かない?」
オギちゃんはブースの方を指さして聞いた。彼の人差し指の向こうでストロボライトが激しく点滅して、人差し指の先端が光っているように見え、その既視感に頬が緩む。
「オギちゃん」
「うん」
「手繋いで」
アクセントを間違えて発された声を、オギちゃんは大音量の音楽が鳴り響く中でも理解してくれたようで、ソファに腰かけると私の左手を左手で握り、どうしたのと言いながら右手で私の肩の辺りをさすった。
「あれだよね。ユカさんていつもそうだよね。いつも最初さ、そうやって丸くなるよね」
私の手は彼の手に爪を食い込ませていて、ジェルのスカルプが取れてしまうんじゃないかと思いながら、力を緩められなかった。手を繋いでいる時間が長くなればなるほど、彼の手に対する執着心が芽生えていく。
「あ、ミカが来たよ。行かない?」
「いい」
じゃあ、すぐ戻るね、と続けてオギちゃんが私の肩と手から両手を離し、しばらくすると、少し離れたところから微かにミカとオギちゃんの声が聞こえた。
「ユーカ」
顔を上げるとミカがいた。私は彼に名前を伸ばして呼ばれるたび、自分の名前と彼の名前が似ていることに嫌悪感を抱く。
「行こうよ」
「いい」
「おいでよ。僕と踊って」
ミカの温かくごつごつした手に手首を掴まれ、ぐらっと体勢を崩し、床に足をついた。ああまた、絶望し尽くした。そう思った瞬間、私はミカとなだれ込むようにして踊る人々の中に足を踏み入れていた。
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