ゲームを原作にした長編ファンタジー『ICO』宮部みゆき


 その村では、何十年かに一度、角の生えた子が生まれてくる。その子が十三歳になった時、生贄の刻は満ちた。”霧の城”にニエを捧げよ。

 

 

 少年は頭を押さえて痛みに悶えた。本棚から落ちてきた知の塊が彼の額をしたたかに打ち付けたのである。

 

 

 そこは祖父の書斎である。本棚の中にあった一冊の本に興味を惹かれて、見てみようとしたはいいものの、踏み台に頼らなかったことが仇となった。

 

 

 床に落ちた本を、少年は額をさすりながら見てみる。それはひと目にも古く、厚みのある本であった。

 

 

「イ……コ……」

 

 

 表紙に書かれた文字を、少年は口に出してみる。『ICO 霧の城』と、そこには書かれていた。

 

 

 合わせて、二つの小さな影が大胆な筆致で描かれている。彼らが何者かはわからないけれど、手をつないでいるように見えた。

 

 

 少年は本のページを開いてみる。古びたページに記された文字が浮き上がり、物語が彼の目の前で広がっていくように感じた。

 

 

 それはまるで、祖父の語る昔話に耳を傾けるかのように。あるいは、自らがその物語に登場する少年であるかのように。

 

 

 その村では何十年かに一度、角の生えた子どもが生まれる。生まれたその子どもの名を、イコと名付けられた。

 

 

 角の生えた子どもは健康に育つという。その言い伝え通り、彼は大きな怪我も病気もなく、元気な少年として育つ。

 

 

 しかし、彼が十三歳になった時、彼は、育ての親である村長からその村に伝わる真実を告げられた。

 

 

 角の生えた子どもは十三歳になった時、ニエとして”霧の城”に行かなければならない。そうしなければ、恐ろしいことが起こるのだ、と。

 

 

 村に長く伝えられているしきたりと、その霧の城にまつわる”恐ろしいこと”の一端に触れて、イコは自らの運命を受け入れた。

 

 

「どこにいるの!」

 

 

 夢中になって読み進めていた少年は、階下から聞こえた声に思わず肩を揺らして顔を上げた。祖父の書斎に忍び込んだことが見つかれば、しこたま叱られてしまう。

 

 

 少年は慌てて本を閉じると、本棚にしまい込み、階下の声に返事をして扉を開けた。

 

 

 書斎を出る直前、彼は一度だけ振り返る。その視線の先には、彼が今しがた読んでいた本があった。

 

 

 短い間ではあったが、少年はたしかに、その間だけ角の生えた「イコ」になっていた。彼はその純真な心と無垢な好奇心で以て、その物語の世界に引き込まれたのである。

 

 

 これから日常に戻る彼は、「イコ」としての自分を、名残惜しげに見つめる。ニエとなった彼は、この後、どんな結末を辿ることになるのだろうか。少年は思いを馳せながら、扉を閉める。

 

 

 閉ざされた扉。しかし、彼が望むのならば、『ICO』という物語への扉はいついかなる時であっても、その城へと導いてくれるだろう。

 

 

角の生えた少年

 

 機織りの音が止んでいる。しばらく前から、老人はそれに気づいていた。そして待っていた。また機が動き出すのを。しかし、それは沈黙したままであった。

 

 

 老人はわずかに頭を傾げ、耳を澄ませた。機織りの音に代わって、もしや泣き声が聞こえてくるかもしれない。

 

 

 御機屋は、何日も前に完成していた。だが、オネは泣き叫んで嫌がり、御機屋に近づこうとさえしなかった。

 

 

 老人は諄々と説いて聞かせた。いつかこうなることは、おまえも知っていたはずだ。あの子が生まれたときから、おまえにもわかっていたはずだ。

 

 

 生贄の刻。この老人――トクサ村の村長は、今年七十歳になった。彼が彼の父親からこの座を引き継いだのは、十三年前のことである。

 

 

 そして、老人が、新しい村長として考えをまとめ始めた矢先に、あの子は生まれた。間もなくニエとなろうとしている、あの不幸な子どもは生まれた。

 

 

 あの夜、ムラジとスズの赤子に角が生えているという報せを聞いた時、父親は、息子を呼んだ。

 

 

「わしはおまえに、なかなか村長の座を譲ろうとしなかった。ただただ、おまえにニエのことを背負わせたくなかったからなのだ」

 

 

 このトクサの村では、何十年かにひとり、頭に角を持った子どもが生まれてくる。角を持って生まれた子は、角のない子どもよりも丈夫に育つ。

 

 

 その子が十三歳になると、角はその本性を現わす。それこそが「生贄の刻」である。”霧の城”が呼んでいる。時は満ちた。その子をニエとして捧げよと。

 

 

「肝心なのは、ニエの子を逃がさぬことだ。そしてあれに、自らの運命を、厳しく、子細に、よくよく言い聞かせなければならぬ」

 

 

 村長は怯えた。ほんの今しがた生まれたばかりの赤子。生まれた時から、おまえはいずれ”霧の城”に捧げられる命なのだと、どんな言葉で語り聞かせればいいというのだ。

 

 

「肝に銘じておくのだ。村長は怖れてはならぬ。村長は疑ってはならぬ。我らはしきたりに従うだけだ。それさえ無事になしとげれば、”霧の城”は満足してくれる」

 

 

 オネ――オネよ。どうかもう泣かないでおくれ。村長は心の中で請い願った。オネよ。幾度言い聞かせたらわかってくれるのだ。どれほどの涙も、どれほどの怒りも、通じはしないのだということを。

 

 

 遠く西の彼方、陽の沈むところ、地の果ての断崖にそびえ立つ、古の”霧の城”。そこには我らの声は届かぬ。

 

 

 かの城主の怒りを和らげ、その呪いを、たとえしばしのあいだであっても遠ざけることができるものは、ただ、選ばれしニエだけなのだということを。

 

 

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