イヤミスの女王のデビュー作『告白』湊かなえ


「さて、この物語の、誰が一番の悪だと思う?」

 

 

 先生が私たちにそう問いかける。退屈な道徳の授業の脇道に反れた話題に、どの生徒も内心で目を輝かせているのがわかった。

 

 

 先生が湊かなえという作家の『告白』をおすすめの本として生徒たちに勧めたのは、少し前のことだった。

 

 

 私と、そして一部の生徒はその作品を以前から知っていた。映画も見たことがある。その作品をきっかけに、今では有名な子役が頭角を現したのは有名な話だ。

 

 

 しかし、多くの生徒はその作品を知らなかった。とはいえ、普段は読書なんてしない子たちも、そのとても教師が勧めるべきとは思えない内容に興味を惹かれたようだった。

 

 

 まさしく、とてもじゃないが、教師が生徒に推薦するような本ではないだろう。なにせ、教師が生徒に復讐する話なのだから。

 

 

 みんながその内容を知ったことについて、先生が聞いたのが、最初に言った質問、というわけである。道徳の教科書はとっくに閉じられていた。

 

 

「やっぱり、先生が一番悪いと思います」

 

 

 ひとりが手を挙げて、そう言った。優等生の委員長だった。それはどうしてかな。先生が聞くと、彼女は戸惑いがちに答えた。

 

 

「え、だって、この先生がしていることは犯罪じゃないですか。復讐を自分でするんじゃなくて、警察に任せるのが良かったんじゃないかと思います」

 

 

「でも、彼女が言っているように、法律には限界がある。彼らは犯罪を通じて自分の名が知られることを喜ぶだろうね。しかも、少年法によって重い処罰が下されることはない」

 

 

「それでも、復讐はいけないことです。裁判で処罰が決まって、それを遵守するのが正しいと思います」

 

 

 彼女がそう答えて座ると、先生はうんうんと頷いた。それもひとつの意見だ。さて、別の意見はないだろうか。ひとりが手を挙げる。

 

 

「やっぱり、僕は全ての始まりである少年Aが悪いのだと思います。彼がこんなことを計画しなければ、こんなひどいことにはならなかった」

 

 

「そうだね。だけど、実際の犯人は違ったろう。このことを、君はどう考えるね?」

 

 

「彼は巻き込まれただけです。この物語の登場人物はみんな、少年Aに振り回されただけ。僕はそう考えます」

 

 

 先生がその意見に対して何かを言う前に、別の手が挙がった。彼女はどうやら、その意見を聞き流せなかったらしい。

 

 

「でも、彼が実行に移した理由は、非常に自己中心的です。私は彼が一番悪いと思います。彼がそんなことをしなければ、ここまでひどくはならなかったはずです」

 

 

「彼は母親に愛されていた。しかし、その過剰であり、一方的な愛で人格を歪まされていたとも言えるね。ここに酌量の余地はないだろうか」

 

 

「もちろん、母親も悪いです。でも、彼が実行に移したのは、束の間の自己満足を得るためのものでした。絶対に許せることではないと思います」

 

 

 また別の手が挙がる。誰もがその人物を意外な目で見つめた。普段は不真面目な男子だが、今はどこか楽しんで授業に参加しているようだ。

 

 

「俺は、この新しく来た新任の教師に一票入れるぜ。この独りよがりな態度がこいつを追い詰めたんじゃねえか。事態を悪化させたのは間違いなくコイツだろ」

 

 

「しかし、彼は純粋に理想を追い求めた教師だっただろう。彼は悪人ではない。利用されただけだ。そうは思わないかな」

 

 

「思わないね。この教師が自分の理想しか見ていなかったのが一番の問題じゃねえか。生徒と向き合ってりゃあ、こうはならなかったのによぉ」

 

 

 おお、と感嘆の声が上がる。彼がこんなに真面目なことを考えてこの作品を読んでいたのは、誰も思っていなかったのだ。

 

 

 先生は満足げに頷いてから、教室を見渡す。その視線が一点で止まった。私はぎょっとする。その視線の先には、私がいた。

 

 

「君は、以前からこの作品が好きだと言っていたね。君はどう思うか、参考までに聞かせてほしいな」

 

 

 教室中の視線が私の方を向く。私は戸惑ったけれど、どう答えようか少し考えた。実は、自分の答えはすでにあるのだ。

 

 

「私は、この作品に出ているみんなが悪いのだと思います」

 

 

「ほう、それはまた、どうして」

 

 

「もちろん、事件を起こした二人が事の発端です。そして、それに対して復讐を選んだ先生は、教師としてはふさわしくない人物でしょう」

 

 

 私は言葉を選びながら、答える。誰が悪いのかを決める中で、この答えは反則ではないかとも思うけれど、私はこれ以外にないと思うのだ。

 

 

「彼らの母親にも責があります。自分の子どもときちんと向き合おうとしなかったから、彼らは歪んだ考え方を持ってしまった」

 

 

 そして、教師。

 

 

「後任の教師が事態を悪化させたのは明白です。彼がもっと自分の受け持ったクラスと向き合えば、どうにかできたのかもしれません」

 

 

 そのクラスもまた。

 

 

「クラスメイトたちに犯人たちを裁く権利はあるのでしょうか。もちろん、ありません。彼らは正義感を振りかざして誰かを叩きたいだけですから」

 

 

 この物語は誰も幸せにならない。復讐は果たされても、先生の子どもが返ってくるわけではないのだ。読めば読むほど、坂道を転がり落ちるように下へ下へと落ちていく。

 

 

「この物語には、悪しかいない。君はそう、考えたわけだね」

 

 

 先生の問いに、私は肯いた。

 

 

本当の悪とは?

 

「さて、彼女とは違う意見は、あるだろうか」

 

 

 教室を見渡す先生の問いに、誰も答えなかった。なにせ、私の答えは物語に登場する全員というものだ。違う意見なんて、どうやって出すかわからない。

 

 

 教室が沈黙に包まれていた。しかし、その沈黙を突き破る音がある。小さな寝息。それは、さっきまでの意見が飛び交う状況ではとても聞こえなかっただろう。

 

 

「君は、どう思うだろうか」

 

 

 突然当てられて、彼女は驚いたようだった。びくっと肩を震わせて飛び起きる。起きて、教室中の視線が自分を向いていることに気がついたらしい。

 

 

 彼女はマイペースに立ち上がる。ぼんやりしていたけれど、彼女は少し首を傾げて、こう言った。

 

 

「みんな、悪いと思う」

 

 

「みんな、とは」

 

 

「だから、ここにいる、みんな」

 

 

 私はぎょっとする。彼女が指したのは作中の人物ではない。教室にいる私たちのことを指していたのだ。先生は笑みを深めて、どういうことかな、と問いかける。

 

 

「悪者が誰か、なんて誰にも決められないんじゃないかな。それこそ、クラスメイトたちと同じになっちゃうじゃない」

 

 

 悪だって決めつけるのは、自分を正義だと思っているか、あるいは自分を無関係だと俯瞰している人物だけでしょう。でも、本当は誰にも悪なんて決めることなんてできないんじゃないかと、思う。

 

 

「物語の外で誰が本当の悪なのかを議論している私たちが、傲慢な本当の悪なんじゃないか、と思います。って答えで、いいですか」

 

 

「ええ、もちろんですよ。ありがとう」

 

 

 先生が頷くと、彼女はほっと息を吐いて座り、また何事もなかったかのように寝息を立て始める。また寝るのかよ、とは誰も言えなかった。

 

 

「さて、議論はここまでにしようか。なかなかにおもしろいとは思わないか。ひとつの作品にも、これだけの意見がある」

 

 

 先生は沈黙が立ち込めた教室でただひとり、雄弁に語りかける。居た堪れなさに黙り込む私たちを嘲笑うかのように。

 

 

「今日出てきた意見は全て、正解とも間違いとも言える。いろんな視点で読むことができるからこそ、この作品は多くの人に愛され、そして多くの人の心を突き刺すんだ」

 

 

 と、きれいに締める前に、君たちを黙らせてい原因であろう最後の意見について触れてみるとしようか。

 

 

「善悪なんてのは個人の見方でしかない。それを決めつけることそれ自体が間違いだ。条件さえあれば、復讐をした先生の行動すらも正義に見えるように、ね」

 

 

 だから、自分だけの善悪に囚われず、もっとたくさんの目を持って物事と向き合ってほしいな、と先生は思っているんだ。

 

 

「これは学校で教えてもらえない、けれど、もっとも簡単な道徳の授業だ」

 

 

 授業終了のチャイムが鳴り響く。誰も、何も話すことができなかった。たったひとつの寝息以外は。

 

 

娘をなくした教師の復讐

 

 牛乳を飲み終わった人から、紙パックを自分の番号のケースに戻して席に着くように。全員飲み終わったようですね。ミルクタイムも本日で終了です。お疲れさまでした。

 

 

 牛乳の話はさておき、私は今月いっぱいで教員を退職します。辞めるのはあれが原因か? そうですね、そういうことを含めて、最後にみんなに聞いてもらいたい話があります。

 

 

 私は教師だからといって四六時中、生徒たちのことを考えていたわけではありません。もっと大切な存在がいたからです。

 

 

 私はシングルマザー、未婚の母でした。私は全ての愛情を娘に注ぎ込みました。しかし愛美はもういません。

 

 

 あの日、職員会議が終わったのは六時少し前でした。迎えに行くと愛美はいません。

 

 

 夏の水泳の授業が終わっても、プールには一年中水が張られています。枯葉が浮かぶ暗い水面に愛美は浮かんでいました。

 

 

 わたしが辞職を決意したのは愛美のことが原因です。しかし、もしもそれが本当に事故であれば、教員を続けていたと思います。ではなぜ辞職するのか?

 

 

 愛美は事故で亡くなったのではなく、このクラスの生徒の手にかけられたのです。

 

 

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