愛した女性は実在したのか『崩れる脳を抱きしめて』知念実希人


白い病室は、さながら牢獄のようでした。窓の外に見える光景はこんなにも近いのに、あまりにも遠い。兄以外に見舞いに来るような知り合いもおらず、有り余った時間を、私は本を読んで過ごしておりました。

 

本というものはなんと素晴らしいのでしょう。窓から見える光景と白い病室以外を知らない私に、その言葉の羅列はいくつもの世界を見せてくれるのですから。

 

さて、今日は何を読もうかしらと、兄が持ってきてくれた本を選んでいると、ふと、一冊の本が目に入って、おや、と首を傾げました。

 

それは、『崩れる脳を抱きしめて』という本でした。知念実希人先生のお名前こそ知っていましたが、先生の著作を手に取ったのは初めてです。

 

ぺらぺらとめくってみると、やはりというか、病院や病気が主題になっている様子。普段、兄は病身の私に気を遣ってか、この手の本は選ばないようにしているのですが、どうやら兄の私物が紛れ込んでしまったようですね。

 

しかし、実のところ、私自身はあまり気にしてはいません。物語は物語、現実は現実です。むしろ、そういった理由で名作を読めなくなるのはもったいないことだと思っています。

 

ましてや、この『崩れる脳を抱きしめて』は、しばしばタイトルをお見かけすることから察するに、人気があるのでしょう。これもせっかくの機会と思い、読んでみることにしました。

 

「葉山の岬病院」に研修医として勤めている蒼馬は、自分の担当するひとりの女性の病室を訪れます。彼女の名は弓狩環といいました。

 

彼女が抱えているのは、グリオブラストーマという病気です。脳にできる腫瘍の一種で、いつ命を落とすかわからないという、非常に重い症状を持っています。いわば、頭の中にいつ爆発するかわからない時限爆弾があるのです。

 

少し変わり者の彼女との交流を続けていくうちに、次第に二人は親密な仲になっていきます。過去の因縁から解放してくれた彼女に、蒼馬は淡い想いを抱くようになっていました。

 

しかし、研修期間も終わった頃、彼は衝撃的な報せを受け取ることになります。弓狩環が、亡くなったという報せを。

 

読み終わり、私はふうと大きく息を吐きます。真実が明らかになったと思えば、また次の事件が畳みかけるように起こり、その連続で、読んでいる間中ハラハラしっぱなしでした。

 

『世界の中心で愛を叫ぶ』みたいな感動モノの恋愛小説なのかと思っていましたけれど、意外や意外、ミステリ作品としてもかなり楽しめる作品でした。

 

もちろん、恋愛もドキドキさせられて。不穏な雰囲気の冒頭からは想像もできない終わり方で、この本が人気作として数えられるのもわかります。

 

とはいえ、病気を抱えている身としては、少しばかり考えさせられました。私の病気は作中に出ているような、重いものでは決していないのですけれど。

 

自分に未来がないことを知っている身としては、やはり、恋愛は難しいものなのでしょう。健康に生きている人よりも「時間」の価値がわかっているからこそ、なおさら。

 

「それでも構わない、君のことが好きだ!」なんて、ドラマや映画みたいな、そんな言葉を言うのはいつだって健康な主人公で、好意を真正面からぶつけるその言葉に、女性は胸を打たれるのでしょうか。

 

ですが、言われる身に立ってみると、それほど残酷な言葉はない。応えたくても応えられない。相手のことを想うからこそ、その好意に応えることが何を意味するのか、わかってしまうから。

 

なんて切ない。ヒロインが病気の作品のほとんどは悲恋で終わります。兄が私にこういった本を持ってこなかったのは、この想いが私には如実にわかってしまうからでしょう。

 

しかし、望めるのならば。矛盾していることはわかっているうえで、そういった恋愛をいつか、してみたいものです。好きで好きでたまらない人が現れた時、私は、いったい何を考えて、どうするのでしょうか。

 

この真っ白で何もない病室が、恋の色に染まる時はあるのかな。それはきっと、窓の外に見える世界のように美しいものなのでしょうね。

 

 

弓狩環という女性

 

二両編成の列車から降りて辺りを見回す。ホームに僕以外の人影はなかった。どこか眠そうな顔をした駅員に切符を渡して改札を抜けると、天井の高い木製の駅舎になっていた。

 

僕は視線を挙げる。正面に寂れた住宅街が広がり、そのはるか奥に小高い丘が見えた。落葉を舞い上げながら、早春の風が吹き抜ける。

 

ずっとこのときを待っていた。彼女が、弓狩環さんが命を落としたと聞いたあの日からずっと。弓狩環……ユカリさん……。

 

硝子細工のように美しく、そして儚い微笑みが脳裏をかすめる。もうすぐだ。もうすぐ、僕の前から彼女を消した犯人に会える。

 

胸に手を当てて昂った気持ちを抑えていると、一匹の黒猫が近づいてきた。赤い首輪をしたその猫は、目の前を横切ると、すぐわきのベンチで毛づくろいをはじめた。

 

「縁起が悪いな」

 

苦笑しつつ、生地の上からジャケットの内ポケットに触れた。中にある硬い感触が掌に伝わってくる。これを使う覚悟はすでにできていた。

 

いつの間にか毛づくろいを終え、香箱座りになっていた猫が、促すようにニャーンと鳴いた。縄張りから出て行けということだろうか。

 

悠長にタクシーを待つ気などなかった。小高い丘を見上げると、僕は地面を蹴って走り出した。あの病院で出会った女性、弓狩環さんの意志を果たすために。

 

 

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