ジュリエットとジュステーヌ。悪辣な姉は富と権力を手に入れて享楽に溺れた日々を過ごし、善良な妹は骨の髄まで食い尽くされた挙句に女囚の身に墜ちる。
善良こそを尊ぶ世の中に対して唾を吐きかけたその作品は、『悪徳の栄え』という。
鉄格子の内で筆を走らせたサド侯爵とて、よもや未来、『彼女の血が溶けてゆく』という作品の中で語られるとは思っていなかったろう。
医療ミスを発端に糾弾される前妻を救うため、銀次郎は亡くなった綿貫愛の素性を探る。
調べていくうちに次々と明らかになっていく驚愕の真実。それらは結びつき、果たしていかなる形になるか。誰がジュリエットで、誰がジュステーヌなのだろう。
「ほら、ようやく出来上がった。読んでみてくれ」
牢の中から痩せ細った手が差し出される。黒く汚れたその手には、一篇の紙束がしかと握られていた。
看守は無造作にめくって顔をしかめる。猥褻な挿絵、残酷な表現。それはさながら、世の常識を唾棄するかのような。
彼は大人しい男だった。ほんのわずかな仕草にも上品さが感じられる。貴族の生まれだからだろうか。
今でも信じられない。この男が、あのアルクイユ事件を起こしたサド侯爵だとは。一見すれば、ただの上品な初老の男に過ぎないというのに。
どころか、乱暴者と接することが多いこの場において、侯爵は看守の目から見ても好ましい人格の持ち主であった。
しかし、今まさに手渡された紙束を読めば、やはり彼はこの牢にふさわしい人間なのだと思い知らされる。
「君も、私が異常だと思っているのだろうね」
看守はぐっと言葉に詰まった。まさしく、その通りのことを考えていたからだった。
「善良な者には幸福を、悪人には裁きを。それは当然のこととしてまかり通っている」
「当然だろう。世界の摂理だ。そうあるからこそ、我々は隣人を愛し、手を差し伸べることができる」
看守が言ったがしかし、侯爵はゆるゆると首を振る。看守は思わずぎくりとした。彼の瞳には、平時の知的な輝きとは異なる、暗い光があった。
「私は哀しいのだ。誰もが理想の姿に目が眩むあまり、食い物にされていることにすら気づいていない。現実はどこまでも残酷で、冷徹だ」
理想は眩しい。だからこそ、誰もがそうであれと願う。そのはずだと願う。しかし、現実は。
「姉のジュリエットが支配者となり、妹のジュステーヌは社会から食い物にされる。しかし、ジュステーヌは助からない。彼女を苦境から救う神など、いないからだ」
侯爵は物語に現実を描き出した。掲げられた偽りの世界の裏側に隠されている、荒廃した現実を。
その言葉を聞いた時、看守が感じたのは痛烈な怒りだった。彼は、やはり野放しにしてはならない。あまりにも危険な思想の持ち主だ。
胸の奥がざわつく。彼の言葉に揺れているのか。いや、そうではない。そんなはずはない。彼の言葉など、ただの犯罪者の声に過ぎないのだから。
「たとえそうだとしても、誰も貴様の残酷な現実になど目を向けやしない。聞くことすら拒むだろう。誰も、好んで苦しみなど、味わいたくはないのだから」
看守はわざと荒々しく、牢の中に彼の小説をぶちまけた。床に散らばる紙切れを、彼はじっと見つめた後、黙り込んだまま拾い集める。
看守には、彼の背中がひどく小さく見えた。世界に対して唾を吐きかけて立ち向かうその背中は、なんと小さいのだろう。
真実の先に待ち受けるものは
それほど広くない川沿いの道は、車などの往来はほとんどなく、だからこそ思う存分、桜を楽しむことができる。
中目黒は隠れ家的な洒落た飲食店が多いから仕事の取材でよく利用するが、プライベートで訪れるのは思えば初めてかもしれない。
いや、プライベートではないのだ。これも仕事の一環である。ただ、これから会いに行く人物のことを思い出すと、とても仕事だとドライに割り切ることはできそうになかった。
時折肩に落ちてくる桜の花弁を手で払いながら目黒川沿いを歩き続けていると、聡美が現在暮らしているマンションが見えてきた。
なぜ、自分のマンションの部屋を聡美は指定したのだろう。俺は今日、たった一人で聡美を訪ねに来た。聡美もそれを了承している。
もしかしたら聡美は前夫にすがるほど困り果てているのかもしれない、そうあってほしい、と考えるのは、俺が未だに聡美に未練があるという証拠なのだろうか。
聡美の部屋のインターホンを押してしばらく待った。そして現れた聡美は最後に別れた時の彼女とは、あまりにも印象が違っていた。幾分やつれた印象を受ける。
患者の家族から、世間から、そして何より仲間のはずだった病院のスタッフから攻撃されて心底疲れているのだ。
今回の事件で聡美は病院の激務から解放されたのだが、それと引き換えに提訴されてしまっては身体を休めるどころではない。
「ひさしぶりだな」
まるっきりの赤の他人にする挨拶ではないが、それでもできるだけ感情を押し殺し、俺は言った。聡美は、上がって、と小さな声で呟いた。
俺はICレコーダーをバッグから取り出し、スイッチを入れてテーブルの上に置いた。聡美はコーヒーを口に含んで、飲み込み、おもむろに話し始めた。
「発端は三か月前に問題の患者さん――綿貫愛さんが私の外来を訪れたことだった」
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