不倫から始まる恋の切なさ『喋々喃々』小川糸


 良くないこと、だということはわかっているのです。けれど、気が付けば、彼の姿を探している自分がいることを、私はどうしようもなく知ってしまっているのでした。

 

 

 学生の頃、小川糸先生の『喋々喃々』という作品を読んだことがあります。当時の私は先生の作品が大好きで、読みふけっていたのです。

 

 

 きものを売っている店「ひめまつ屋」を営む栞は、ある時、お客様として駆け込んできた春一郎という男性と出会います。

 

 

 彼は妻子を持つ既婚者でした。しかし、いけないと感じつつも、栞は優しい彼に次第に淡い想いを抱くようになるのです。

 

 

 そして、春一郎もまた、栞に心惹かれるようになります。彼女らは互いに逢瀬を重ね、人目を忍んで食事をしたり出かけたりするようになりました。

 

 

 しかし、それが許されざる関係なのだということを、栞は自覚しておりました。

 

 

 彼の生活を壊したくはない。けれど、自分の中にある春一郎さんへの想いは、すでに止められなくなっておりました。

 

 

 理性と恋心の間で揺れ動く栞の想い。二人の関係に、決着をつけなければならない時が迫っていました。

 

 

 学生の頃の私は、想いを通わせていながらも、許されない関係であるがゆえに決して叶わない、いえ、叶えてはならない二人の恋を切なく見つめていたのを覚えています。

 

 

 葛藤する栞の心情を思えば、胸を締め付けられるような気がしました。そして、直接は登場しない春一郎の妻に投影しても、ひどく切なくなるのです。

 

 

 そんな想いをしながら、涙々に読み終えたその本のように、よもや未来の私が陥ろうとは、当時の私どころかひと月前の私ですら予想できなかったでしょう。

 

 

 いえ、それでは語弊がありますね。私はただ片想いをしているにすぎず、彼は私の存在には気づいていないのでしょうから。

 

 

 彼と出会ったのは、会社の忘年会でした。とはいえ、そこで何があったか、ではありません。そもそも、私は彼とは二言三言しか話していないのです。

 

 

 それだけなのに、身体が熱くなる自分がいました。私は戸惑いました。そんなことは初めてだったから。

 

 

 恋愛のようなことは学生の頃に多少ながらしたことはあります。けれど、彼への想いは、そんな淡い思い出とは比べ物にならないほどの鮮烈な恋心の暴力でした。

 

 

 彼の左手薬指の指輪が視界の端で光るたび、私の心は燃え盛りました。お恥ずかしながら、私は彼の妻子に嫉妬していたのです。

 

 

 彼は会社でも有名なおしどり夫婦でした。私の想いがどうひっくり返っても叶わないことくらい、わかっているのです。

 

 

 不倫は楽しい、と、テレビで男性が言っているのを聞いたことがあります。ですが、楽しいことなんて、ひとつとしてない。

 

 

 だって、こんなにも、ひどく苦しい。この想いは叶わない。叶えてはならない。それなのに、想いだけが私の心を燃やしているのだから。

 

 

許されない恋

 

 セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ。真っ白い粥に細かく刻んだそれらを放つと、そこだけ春になった。

 

 

 私は、東京の下町の風情を残す谷中という町で、アンティークのきものを売って暮らしている。店の名前は、ひめまつ屋という。

 

 

 まだお正月気分で家に籠っている人が多いのか、客足が乏しい。表の掃除も鉢植えの手入れも済み、店の中に戻ると午後三時半。ごめんください、と男性の声がした。

 

 

 クラリネットの低音に似た、聞いていて心地よい声。振り向くと、見知らぬ男性がおそるおそるといった面持ちで、引き戸の隙間から顔を出した。

 

 

「いらっしゃいませ。どうぞお上がりください」

 

 

 私は気を取り直して、明るく声をかけた。男性は重たそうなリュックを畳の上に置き、靴紐をほどいて靴を脱いだ。

 

 

 きものの入っている棚の前で立ち止まり、遠慮がちに数箇所、指先できものの生地に触れた。

 

 

「何か、お探しですか?」

 

 

「あ、あのいえ、えーっと、きものを探してまして」

 

 

 男性は初釜に着ていくきものを探しているとのことだ。私も隣に正座をし、一緒にきもの探しを手伝った。

 

 

 下の方で状態のよいものが見つかる。丹後ちりめんだから、どんなお茶会にも申し分ないし、ざっと見た限り、染みやほつれもない。

 

 

「とってもお似合いですね。素敵です」

 

 

 私は、お世辞ではなく本心で言った。明るいグリーンのきものが、本当にとてもよく似合っている。

 

 

 きものを脱いだ男性に、私はお菓子を勧めた。さっき男性と着物を見定めながらお喋りをするうち、私も久しぶりに抹茶が点てたくなっていた。

 

 

 結局男性が、着ていたグリーンのきものと、正絹の襦袢を選んだ。なんとなく、きものの方も男性に着られたがっているような感じがした。

 

 

 ただ、若干裄と丈が短かったので、今のうちにサイズを直しておいた方がいいように思われた。初釜の予定は、ちょうど一週間後だという。

 

 

「なんとか間に合うよう、直しに出かけてみますね」

 

 

 表に出て、男性の背中を見送る。藍染め液を流し込んだような濃紺の空の下、ひっそりと冬の空が広がっている。

 

 

 キノシタハルイチロウさん。私は、たった今知ったばかりの男性の名前を心に刻む。

 

 

 素敵なお名前ですね、と私が褒めると、僕、春一番の吹いた日に生まれたんですよ、木ノ下さんは恥ずかしそうに笑って答えた。

 

 

 笑うと目尻に三本線の皴ができる、左手の薬指に結婚指輪をはめている人だった。

 

 

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