この世界ではないどこかに、本当の居場所がある。子どもの頃から、心の端でそう思っていたことがある。自分は生まれる場所を間違えた。そんな妄想。
その心地よい幻想が、もう一度頭に浮かび上がってきたのはどうしてか。ああ、そうだ、小野不由美先生の『魔性の子』を読んだからだっけ。
そもそも、小野不由美先生の『十二国戦記』シリーズを知ったのは、大学の友人に「おもしろくておすすめ」として教わったからだった。
『十二国戦記』は、妖怪や怪物が登場する中国のような異世界を舞台としたファンタジー作品のシリーズである。『魔性の子』もその一端ではあるものの、シリーズの中では異色とされている。
というのも、そもそも、『魔性の子』は『十二国戦記』が書かれたきっかけになった作品らしい。『魔性の子』で波乱を巻き起こす非現実の世界が、『十二国戦記』になった。
『十二国戦記』が異世界を舞台にしているのに比べて、『魔性の子』は現代の、今私たちがいるような現実世界を舞台にしている。
教育実習生の広瀬は、担当になったクラスで高里という男子生徒と出会う。大人しく、静かな少年だったが、彼はどこか異質だった。
クラスメイトたちはどうやら、彼を遠巻きにしているらしい。いじめるわけでもなく、ただ距離を置く。その姿勢には、ある理由があった。
高里には二つの噂話がある。ひとつは、彼が小学四年生の頃に一年間ほど、神隠しに遭ったということ。そして、もうひとつは、彼を害すると、祟りに遭うということ。
彼に暴力を振るうまでいかずとも、彼をからかったり、不快な言葉をぶつけただけでも、必ず不幸な目に遭う。高里が遠巻きにされているのは、そういった理由だった。
広瀬は最初、ただのオカルトだとして信じなかった。しかし、クラスの輪から外れている高里に、善意から喝をぶつけた岩木という生徒が不可解な死を遂げたことをきっかけに、彼の祟りは次第に大きく、凄惨になっていく。
ファンタジーシリーズのひとつとは思えないほどその描写はホラーに寄っていて、正直、そこらのホラー小説よりもよほどグロテスクで不気味な作品だった。でも、どこか惹かれてしまうような何かがある。
教育実習生の広瀬は、作中で高里の唯一の味方となる。彼らの共通点は、「この世界とは異なる世界の存在を信じ、帰りたいと思っていること」だ。
苛烈に高里を憎むようになっていく世間や人間の醜さを、広瀬はありありと目にする。彼らへの嫌悪は世界への嫌悪につながり、広瀬はいっそう異世界への憧れに沈んでいく。
結局のところ、彼はまだ、純粋な子どもなのだということだろう。大人になりきれていない。自分と社会との間に折り合いをつけず、頑なに異世界を信じ、憧れている。
私は彼を冷笑的に眺めながらも、どこかで、今もなお失われていない彼の純粋さを眩しく思っていた。私はきっと、彼らを責め立てる醜い人間たちのひとりだろう。
昨今、「異世界もの」なるジャンルをよく見かけるようになった。現実世界で命を落とし、記憶を残したまま、異世界で活躍する。
その根元にあるのは、広瀬と同じ、異世界への憧れだろう。そこは厳しく過酷な現実世界とは違う。自分が強く、賢く、美しくあることができる、そんな世界だ。
その数を思えば、少し切なくなる。「異世界もの」の書かれた数は、きっとそれだけ、この世界を嫌いになった人の数ということ。「この世界は自分の居場所じゃない」と見限った人たちが、あまりにも多すぎる。
広瀬が唯一慕っていた教師、後藤の言葉が染み入るように響く。「俺たちを嫌いにならないでくれ」と。この世界に、愛想を尽かさないでくれ。けれど、その言葉はもう、彼らの耳には届かないのかもしれない。
「居場所がないっていう現実こそが、本当の居場所なんだ」これは別の作品の言葉だけれど、ふと、思い出す。私たちは「本物」じゃない。異世界に憧れるだけの、ただの偽物。
醜くて、汚い、現実。それがどれだけ嫌いであったとしても、私たちもまた、その現実のひとつでしかなくて、その現実の世界の中で苦しみ悶えながら生きていくしかないのだと、『魔性の子』は教えてくれた。
「本物」と「偽物」
雪が降っていた。重い大きな雪片が沈むように降りしきっていた。天を見上げれば空は白、そこに灰色の薄い影が無数に滲む。彼は肩に軟着陸したひとひらを見る。綿毛のような結晶が見えるほど、大きく重い雪だった。
雪の白よりも、彼の吐息の白の方が寒々しかった。子ども特有の細い首を巡らせると動作の通りに白く吐息が動きをみせて、それがいっそう眼に寒い。
彼がそこに立ってもう一時間が過ぎた。小さな手も剥き出しの膝も、熟れたように赤くなってすでに感覚がない。北の中庭だった。狭い庭の隅には使われなくなって久しい倉が建っている。土壁に入った亀裂が寒々しい。
彼が子供なりに重いため息をついたときだった。ふいに首筋に風が当たった。すかすかするような冷たい風でなく、ひどく暖かい風だった。
彼は倉の脇まで眼をやって、それからきょとんと瞬きをした。倉と土塀の間のごくわずかの隙間から、白いものが伸びていた。それは人の腕に見えた。腕は肘から下を泳がせるようにして動かしていた。それが手招きしているのだと悟って、彼は足を踏み出す。
雪は既に地面を覆って、彼の小さな足跡を残すほどになっている。白い空は墨を暈したように色を変えている。短い冬の日は暮れようとしていた。
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