けたたましく鳴り響くエンジン音。怪物のような咆哮を挙げる暴れ馬のような相棒の手綱を引く。風を切るその瞬間、俺の目はただ目の前に伸びる道にだけ向けられていた。
初めてバイクを買ったのは、免許を取ってばかりの頃だった。この日をどれほど待ちわびたことか。新しい新車のバイクを俺は恋人のように撫でた。
その愛おしい愛車が数日後にただの鉄塊になったのは、自分の折れた骨の痛みすらも消えるほどに悔しかった。噛んだ唇から赤い糸が落ちていく。
激突した巨大な鉄の牡牛に跳ね飛ばされて、俺の身体は空を飛んだのだという。数日間、意識はなかった。
その間、夢を見ていたように思う。それは俺の人生を辿るような夢。夢の中の俺は、まだ青臭いガキでしかなかった。
俺がバイクに憧れるようになったのは、ある一冊の本を読んだからだ。それは、『汚れた英雄』という作品だ。
レース小説ではあるものの、どちらかというと描かれているのは北野晶夫というひとりのレーサーの生涯だった。
読み始めた瞬間、俺はやばいと感じた。まるでそこには牙の並んだ巨大な口が開いていて、今にもまさに俺を呑み込もうとしているかのようだった。
この先を読めば、逃げられなくなる。俺はこの、北野晶夫という男の人生に囚われる。それは当時の俺にとっては恐ろしく、そして、魅力的なことだった。
北野晶夫は善人ではない。悪人とすら言っていいだろう。女と暴力、欲望、妄執、狂気。淡々と綴られるその文章の中には、それらが横溢しているかのようだった。
北野晶夫は貧乏な家の子どもとして生まれる。彼がバイクに興味を持つようになったのは、父に無理やり仕事を手伝わされたことだった。
彼は美貌の少年だった。その美貌は彼の人生を歪ませた。彼はただいるだけでも女を魅了し、そして彼自身も彼女たちの誘いに抵抗を持たなかった。
晶夫は女を篭絡し、彼女たちから金をまきあげていく。それでも女が離れないのは、晶夫の陰のある美貌と逞しい身体によるものだ。
多くの女たちの間を渡り歩きながらも、晶夫の心に喜びはない。彼は女たちから受け取った金でレースの出場費用を集めた。
晶夫は女たちを愛しているのだろう。しかし、同時に憎んでもいる。彼の根底にあるのは、貧乏な頃に抱いた富裕層への嫉妬と憎悪だ。
女に対する扱いに比して、彼のバイクレースに向ける思いはどこまでもストイックで、誠実だ。ただひたすらに速さを求め、恐怖を押し殺し、ハンドルを握る。
その姿が当時の俺にとってはあまりにもかっこよくて、俺の憧れの男は晶夫になった。そして、バイクに乗れるその時をずっと待っていたのだ。
バイクは危険だ。だが、計り知れない魅力がある。まるで晶夫その人のように。
肩で切る風の、なんと心地よいことか。バイト代を必死で集めて買った俺の相棒の二代目は、歓喜の声を上げて失踪していく。俺だけの道を。
ひとりのレーサーの生涯
道の左右は紅葉が鮮やかな色どりを添えていたが、曲がりくねった路面は凹凸が多かった。
少年は額から流れて眼に入る汗を、色褪せたデニムのウェスターン・ジャケットの袖で拭う。昭和三十二年十月のことであった。
少年は背が高かった。ほっそりした体は強靭であったが、通りすがりの女が息を止めるほどの美貌には、まだ幼さが強く残っていた。少年の名前は北野晶夫といった。
晶夫は浪人学生だ。モーター・サイクルに夢中になって大学受験に失敗したのだ。晶夫は英語が苦手であった。
ひとつは英語をマスターするために、晶夫は今のマクドナルド家に犬の世話係として住みこむことになったのだ。必要に迫られてやってみると英語などすぐにマスターできた。
晶夫は力強くペダルを踏んだ。霧が晴れかけ、左手の草原の向こうに浅間山の裾。低くなった右手の奥にレース場のコースの一部が見えてきた。
やがて、悪路の先に、祝第二回浅間火山レースと書かれたレース場が見えてきた。エンジンの空ぶかしの轟音が響いてくる。
第一回浅間レースは、この年の二年前に、高原地内の道路で行われた耐久ロード・レースであり、晶夫はそれに参加したことが初めてのレース経験であった。
道が突き当りになる左手に、レース場の入り口があった。晶夫は参加証を示して自転車とリヤカーを入り口の右手の駐車場に入れる。
火山の岩礫を盛り上げたスタンドには、もうかなりの人が見える。事務所の横の隙間から、土面のコースの一部が見えた。
晶夫は思わず岩礫のスタンドに駆けあがった。霧は晴れ、煙を吐く浅間山が目の前に見えた。
そして、浅間山と晶夫の間に、曲がりくねった土面のコースが秋草の芝生のなだらかなスロープを縫って横たわっていた。
何度も練習に通い、メーカー・チームのコーナリングを研究した晶夫であったが、興奮に身体が震えてくる。今日こそは、何としてでも完走するのだ。
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