そのシーンを思い出すと、今でも身の毛がよだつほどの悪寒を覚える。椅子に座った男。彼の頭は額の辺りから切られ、脳が露出していた。フライパンの上で踊る脳が、なぜだかとてもおいしそうに見える。
『ハンニバル』という映画を見たのは二度目だった。タイトルを知ったのはその時である。それまでは、クライマックスの衝撃的なシーンだけが、強烈に印象に残っていただけだった。
ハンニバル・レクター。その作品の主人公であり、犯罪者である。一見すれば、上品な老人にしか見えない。会話は知性に溢れ、教養にも優れている。だが、その実態は、人肉食を楽しむ異常な殺人鬼なのだという。
美しく、上品で、けれど、グロテスクで、恐ろしい。そんな相反する要素が、その作品には詰まっていた。その中心に、レクター博士の悪名は燦然と輝いている。
私は彼の強烈なキャラクター性に強く惹かれてしまった。平然と罪を犯し、言葉巧みに人を煙に巻き、あまつさえ、言葉を武器に人を惑わせて罪を犯させる。そんな「悪役」の姿が、とても魅力的だったのだ。
『ハンニバル』は、『レッド・ドラゴン』『羊たちの沈黙』に連なるシリーズのひとつであるらしい。もともと、レクター博士は『レッド・ドラゴン』の脇役でしかなかったという。
作中においては、クラリス・スターリングというFBI捜査官の女性との特別な絆が描かれている。犯罪者と警察組織という敵同士の関係にありながらも、親子とも、恋愛ともつかない彼らの間の絆は深くつながっているかのようだった。
そしてもうひとり、この作品で異彩を放つのが、レクター博士に憎悪を抱き、復讐を夢見て執拗に彼の消息を探すメイスン・ヴァ―ジャーという男である。
かつてレクター博士の洗脳によって自分の顔の皮を剥がさせた彼は、その原形すらもわからないほどの異相となってしまっている。
金と人を使ってレクター博士を追いつめていくメイスン。彼の復讐劇に、博士をおびき寄せる餌として、クラリスは巻き込まれていくこととなる。
決して子どもには見せられない、凄惨で残酷な映画。だが、私にはその描写以上に、彼らの織り成す醜悪な人間関係と、人を人とも思わない人間性が何よりも恐ろしかった。
小説においても、映画と同じように、残忍な描写が鮮やかに描かれている。文章は上品で精緻だからこそ、なおさらその有様は生々しく見えた。
だが、だからこそ、私はこの作品にどうしようもなく囚われてしまうのだろう。時として、得体の知れない狂的な「悪」は、真っ直ぐで純粋な「善」よりも遥かに魅力的で美しい。この作品は、そのことを触れる者に身を以て教えてくれるのだ。
殺人鬼とFBI捜査官
クラリス・スターリングのマスタングは、轟音と共にマサチューセッツ・アヴェニューに面したATF本部への進入路を駆けあがった。
急襲班はすでに三台の車に分乗して待機していた。装備袋を抱え上げてマスタングから降ろすと同時に、クラリスは先頭車両の薄汚れた白いヴァンに駆け寄った。開いた後部ドアの隙間から四人の男が、近づいてくるクラリスを見守っていた。
クラリスは、この種の監視用のヴァンには乗り慣れている。クラリスが窓の方を向くたびに、男性捜査官たちの視線が彼女に注がれる。
FBI特別捜査官、クラリス・スターリング。三十二歳。彼女はいつも実際の歳に見えた師、出動服を着ていても、その歳を魅力的に見せていた。
「君はどうして、こんなやくざな任務にばかり駆り出されるんだ、スターリング?」
微笑いながら、ATFの特別捜査官、ジョン・ブリガムが言った。
「あなたが、わたしのことばかり指名するからだわ」
「いや、今回の任務にはどうしても君が必要なんだよ。でも、俺が毎度毎度君を指名しているわけじゃない。たぶん、司法省に君を毛嫌いしてるお偉方がいるんだろう」
「あと約十分」ドライヴァーが後ろに向かって叫ぶ。三台目のヴァンに乗り組んでいるDEAの正規の急襲チームは、十五時きっかりに、船着き場のフィッシング・ボートから突入することになっている。
このヴァンの我々は、その数分前に、道路側の戸口に誰よりも接近できるはずだ。もしイヴェルダが表に出てきたら、そこで拘束する。出てこなければ、DEAの連中が裏口から突入した直後に、我々もこの表口から突入する。
ゼロ・アワーのきっかり三分前、午後二時五十七分、オンボロの隠密捜査用ヴァンはフェリシアナ・フィッシュ・マーケットの前、縁石際の見通しの良い地点に停止した。
ペリスコープから顔を離そうとした時、ビルの扉が開いた。「出てきたわ」クラリスは言った。二人の男の後ろから、長い首と美貌を覗かせて、イヴェルダ・ドラムゴが現れた。
最初に地面に降り立ったのはクラリスだった。イヴェルダが、編んだ紙をひるがえして、さっとこっちを向く。彼女の横の男たちが銃を構えたのを意識しつつ、クラリスは叫んだ。「地面に伏せて、地面に伏せなさい!」
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