私は悲鳴を上げる侍女をどこか他人事のように眺めていた。その手から私の食事となるべきだったものが床に散らばった。
飛び散ったのは衝撃で割れた皿の破片と、貴族でなければ食べられないような高価な食事、そしてその食事に混ざっていた無数の蛆虫である。
「……今日のお昼は好きなメニューだったから楽しみにしていたのだけれど、やっぱりなしでいいわ」
もうお腹いっぱいよ。私がそう言うと、震える手で片づけをしていた侍女がきっと私を睨む。
「どうしてそんなに平静なのですか! これはれっきとしたいじめなんですよ! こんなこと、許されるはずがありません!」
侍女は実家にいた頃から私に仕えてくれた、姉のような人である。だからこそ、私が大人しく屈辱を受けていることが我慢ならないようであった。
「そんなことを言ってもねぇ、相手は私よりもはるかに家格の高いお方よ。下手に抗議でもしたら、下手すれば家同士の問題になるわ」
そうなれば、大した地位ではない私の家はあっという間に潰されてしまうでしょうね。私がそう言うと、彼女は悔しさから肩を震わせた。
まあ、彼女の気持ちもわかる。私もこのような扱いに何も思わないわけではない。
食べ物には虫を入れられる。すれ違えば陰口を叩かれる。そんなことはいつものことだった。
しかも、そこに明確な理由があるわけでもないのだ。ただ、気に入らないからいじめる。彼女らにとってはそんなものなのだろう。
本当に、女というのは恐ろしい。ひとりひとりは美しい花を装っているのに、集まれば一個の巨大な怪物のようだ。
女の園ともなれば、そこはもう魔境であろう。一人の男の伴侶の座は多くの選ばれなかった女性の犠牲の上に立っている。
「こんなことが許されるはずがありません! 殿下にお伝えしましょう! 必ずや動いてくれるはずです!」
「駄目。殿下は忙しい方よ。そんな些事に気を取られている場合ではないわ。それに、女性の諍いを殿方はどうせ理解できないものよ」
そもそも、後宮の端で燻ぶっているしかない私みたいな令嬢が、殿下に悩みを聞いてもらえる立場になんてなれるはずがないでしょう。私が言うと、侍女は目に涙を浮かべた。
私は申し訳なく思いつつも、どこか冷めた気持ちで彼女を見つめていた。彼女は強い。立ち向かおうとしているのだ。私は諦めてしまったというのに。
「そう息を荒立てても仕方がないわ。大人しく本でも読みましょう」
私はそう言って、『烏に単は似合わない』というファンタジー小説を引っ張り出した。
極東の島国から取り寄せた独特な文化を描いた物語らしい。私はそのページを開いた。
美しさの下にある無垢な悪意
「もう我慢なりません!」
侍女がとうとう声を荒げた。ここ数日続いている嫌がらせに、いくら気丈な彼女であっても精神に堪えているらしい。
息絶えたネズミをおそるおそる始末する彼女は、はあはあと呼吸を荒く零していた。
「そうも反応しては相手を喜ばせるばかりよ。何事もないように流すのが一番ね」
「あなたはどうしてそんな平気な顔をしていられるのです! 家の尊厳も、ご自分の誇りも踏みにじられているのに!」
膝の上に読み終わったばかりの本を置いて冷静に話している私に、彼女は髪を振り乱して答えた。
私は彼女に対して申し訳なさと感謝を覚えている。彼女は私の代わりに瞳に涙を浮かべて怒ってくれているのだ。だから、私は冷静になれる。
私は今さっき読んだばかりの本を胸の内で反芻した。その本に描かれた世界を見るに、どこの国でも寵を競う女というのは大した違いがないらしい。
人間とは本当に恐ろしいものである。中でも女は、特に。私は女であるからこそ、そのことがつくづくに思い知るのだ。
男は力そのものである。女は男に力という点において劣っている。だから、私は男が苦手である。しかし、男の背後にはいつだってそれを操る女の影が見え隠れするのだ。
愛に溺れた女はまさに蛇である。その恋を叶えるためならば、いかなる手段も選ぼうとはしない。
美しく着飾った彼女たちをその腕に抱く男たちは、そのドレスが女の欲望の犠牲となった乙女の涙でできていることを知らないのだ。
人間は同じ性別の相手に対してはどこまでも苛烈になれる。しかし、本当に恐ろしいのはそこではない。
見え透いた悪意は恐ろしかろう。たとえば、今まさに私に向かって嫌がらせをしている令嬢たちとか。
しかし、悪意がない方がよほど恐ろしいと私は思うのだ。
あせびに対してとやかく思うものもいるだろう。しかし、実のところ、私はあせびが嫌いではない。
彼女こそが人間の姿である。人間は誰しも美しい顔の下に何かしらを抱えているものだ。
しかし、人間の本性はきっと、この床にころがった醜いネズミのようなものなのだろう。
后の座を巡る和風ファンタジー
中央で高官を務める東家の当主が前触れもなく別邸を訪れたのは突然のことであった。
当主が訪ねたのは当主の二の姫である。彼女はわけあって別邸でこもったままの生活をしていた。
当主が言うには、宮廷に登殿する予定だった一の姫である双葉にあばたが出来てしまい、登殿することができなくなったという。しかし、東家だけが娘を登殿させないのは外聞が悪い。
そこで、当主は二の姫に、姉の代わりに登殿するよう頼んだ。つまり、名門四家を束ねる宗家の若宮殿下の后候補になったということである。
それからというもの、二の姫は登殿の準備に追われることになる。姉のところで使う予定だった調度品はともかくとしても、本人や侍女の教育はどうにもならない。
二の姫は音楽の素養と礼儀作法だけは使用人筆頭のうこぎに仕込まれ、身につけているものの、こもりきりだったために世俗や常識に疎い。残りは突貫であったが、不安が残る。
とはいえ、着飾った彼女の姿は大層美しい。多くの使用人たちに見送られながら、馬に引かれた車に乗り込んで空へと発った。
東家の姫は代々『春殿』という屋敷が与えられることに決まっていた。しかし、そのためには宗家の実権を握る大紫の御前と藤波に権限をいただかなければいけない。
そうして、春殿のすぐ横に、登殿した四家の姫が一堂に会したのである。
背の高く強そうな夏殿の南家の一の姫、浜木綿。派手な着物で着飾った淡い茜色の髪の秋殿の姫、真赭の薄。そして、小柄で神々しいまでに白い北家の姫、白珠。
彼女らと肩を並べることになった二の姫だったが、彼女には仮名がない。双葉は姉の仮名であり、彼女のものではないのだ。
そこで、大紫の御前は彼女に『あせびの君』と名付け、正式に春殿の管理を任せた。
あせびは大紫の御前に名を与えられたことに感激する。しかし、あせびの名はどうやらそれほどいい意味ではないということを、他家の姫の反応が彼女に教えていた。
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