幼い頃、何かの映画で観た、顔の恐怖が今も、私の脳髄には深く刻まれている。額には角、口は大きく吊り上がり、牙が覗いている。その鬼のような表情が、私は怖くて仕方がなかった。
それがお面だと知ったのは少し後のことで、それが「般若」と呼ばれるお面だと知ったのはさらに後。「般若」が実は鬼ではなく、怒りや憎悪に駆られた女性の表情だということを知ったのは最近のことである。
私は日本の伝統芸能を愛していたが、能についてはまったく何も知らないと言ってもいい。というより、知ろうとすらせず、避けて生きてきたような趣すらあった。能面が、どうしても頭から離れなかったのだ。
幼い頃の私を恐怖させた「般若」をはじめ、女性を象った「小面」、老人を象った「翁」など、能面の浮かべる表情ははなはだ不気味で、私はできるだけ見ないようにしていたのである。
しかし、ある時、ふと。今まで避けてきたのが何だったのかとでも思いたくなるのだが、どうしてだか、能のことを知ろうという気になった。そして読んでみることにしたのが、多田富雄先生の『能の見える風景』である。
表紙には、扇子を持った腕を高く掲げた能役者の白黒写真が大きく描かれている。その顔には、やはり能面。何度見ても、その表情はなんとも言えない不気味さを湛えている。
私は能については何も知らない。だから、この本が、私が最初に触れる能だということになる。そもそも、能とは何か。その答えとして、実にわかりやすく印象的な言葉が、その本には書かれていた。
「能とは、何かが起こるのではなく、何者かが現れるだけだ」と。
つまり、能の主役となるのは、そうやって現れる何者かである。その本の言葉を借りるならば、「異界からの使者」となるのだろう。
使者が現れ、過去を語る。劇的な事件はすべてとっくの昔に終わったことであり、現在のことではない。だから、能では何も起こらない。
私は、恥ずかしながら、能と歌舞伎の違いすらも明確にはわかっていなかった。精々、面をつけているか否か、ということくらいだと。だが、この本から読み取るならば、両者の違いはあまりにも明確だ。
すでに終わった事件を描く能に、歌舞伎のような華々しさや豪快さはない。ただ、静謐で、虚しさだけがある。霊が救いを得たとしても、過去の凄惨な出来事がなかったことになるわけではない。
だが、そこにこそ能の美しさがあるのだろう。多田先生は、羽衣を揺らめかせながら天に昇っていく姿を見て深く感動し、能に心を囚われたのだという。
現実にはない、非現実。あの恐ろしく不気味な能面はその象徴だ。あの表情を通じて、能を見る観客は非現実の世界へと誘われるのだろう。
そしてその、「動」に対する「静」、非現実的な世界、過去の出来事の顕現と、終わった後の虚しさは、まさしく日本らしい「美」を兼ね備えているように思える。
思えば、幼い頃の私が、能面に恐怖を覚えたのも当然なのかもしれない。異界から訪れた非現実的な何者かの顔ならば、子どもから見ればさぞ恐ろしかろう。
だが、今の私は逆に、能に対して強く心惹かれていた。『能の見える風景』を読んだ後は、なおさらその欲求が強くなったのを感じる。
実際に、見てみたい。能という非現実に、この目で、この耳で、触れたいと思った。そこにはきっと、私たちが忘れてしまった日本のかつての姿が残されている。
異界からの使者
お能とは異界からの使者たちが現れる場である。フランスの作家ポール・クローデルが、「能では何事かが起こるのではなくて、何者かが現れる」という意味のことを言ったのはまさにこのことである。
異常体験に正気を失い、あるいは何ものか異界の光景を見て動転したものは、それを物語るために橋掛かりを歩んでくる。愛する我が子を失って気もそぞろになった母や、常軌を逸した嫉妬に狂う女など、いわゆる狂女物はこのジャンルに属する。
戦いで亡くなった武将は、この世に残す恨みや悲しみばかりでなく、あの世でさえも修羅道に落ちるという苦患を受ける、その二重の異常体験を訴えるため異界からやってくる。
本物の異界の魔物や精霊、神々や神仙は言うまでもない。能の面白さは、彼らから異界の話を直接聞くことにある。その表れとして、能では能面という、非日常的な顔で演技する。いかにも異界の人物の顔だ。
今でも私たちが能楽堂に足を運ぶ理由は、このような異界からの使者たちに出会うためではないだろうか。
私たちは中世とは違って、科学が支配する時代に生きている。しかし、私たちにとっても異界の話は決して虚言ではない。というよりも、科学を超えたものの存在を心の片隅で信じようとし、その現われを求めているのだ。
今日も能楽堂の客席に、そういう現代人が集まっている。お能の始まる前の、静かな笛と鼓の「お調べ」に、いかなる使者が現れるか、どんなメッセージを携えてやってくるかと、胸をときめかせながら待っているのだ。
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